室町時代から鎖国まで
- 1382年ジョン・ウィクリフの初の英訳聖書を発刊
- 1415年ヤン・フスは聖書を支持したためローマ教会により処刑
- 1455年ヨハネス・グーテンベルクがラテン語ウルガタ訳の活版印刷を完成
- 1525年ウィリアム・ティンダルが「新約聖書」を完成
- 1549年フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝える
- 1611年英語のジェームズ王欽定訳聖書が発行される
- 1587年豊臣秀吉による伴天連(バテレン)追放令
- 1613年徳川家康の江戸幕府によるキリスト教禁教令を公布
- 1639年鎖国の始まり
日本の室町時代(1336~1568年)に、ヨーロッパでは、1382年にジョン・ウィクリフが初の英訳聖書を完成させ、1418年にヤン・フスは聖書を支持したためカトリック教会に処刑されました。マルティン・ルターがカトリック教会に抗議書簡を送り、こうした流れを経て、ローマ・カトリックに「抗議する者」という意味のプロテスタント(Protestant)の諸宗派が現れました。ウィリアム・ティンダルは1525年に「新約聖書」を完成させます。1536年には、カトリック教会により処刑されます。
フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)
1540年に、カトリック教会のイエズス会のメンバーが、ローマ教皇パウルス3世の承認を受けて、ポルトガル国王の代表として世界各地へと宣教師を派遣しました。南九州の薩摩藩で殺人を犯した後、国外に逃亡していた弥次郎(後にアンジロウと呼ばれている)が、通訳として助け、ザビエルは、1549年(天文18年)に日本の鹿児島に来ます。
ザビエルは、それまで巡回したインドや東南アジアの諸地域と比較して、日本人の識字率の高さや道徳的な規範意識に深い感銘を受けました。彼は書簡の中で、日本人は「理性に適うこと(ラゾン)」であれば進んで受け入れる資質を持っていると述べています。
布教の戦略として、時の権力者(戦国大名)の保護と公認を求める「トップダウン型」の手法を採りました。ザビエルは、薩摩の島津貴久、山口の大内義隆、豊後の大友義鎮といった有力大名に謁見し、布教の許可を得ることに奔走しました。特に山口での大内義隆との会見においては、当初のボロを纏った托鉢修道士の姿が日本社会では軽蔑の対象となることを悟り、高価な衣服を身に纏い、時計や眼鏡などの珍しい献上品を携えて臨むという柔軟な適応を見せました。日本の位階秩序を尊重しつつ、西洋文化の先進性を示すことで教義への関心を引きました。
アンジロウが翻訳した出版物は現存していません。ザビエルらの残した書簡によると、「大日」(ダイニチ)と『神』が混同されていたことがあったようです。神のお名前を代名詞に置き換え『Deus(デウス, 神)』としたことの弊害が表れたかもしれません。後にギュツラフが三人の日本人の若者の助けを借りて、日本語に翻訳したギュツラフ訳聖書では、「神」を「ゴクラク」(極楽)と訳しており、神の固有名詞を使っていれば、仏教用語の混入を防ぐことができたかもしれません。
戦国大名たちに布教を行い、領内での布教を許してもらった結果、日本の切支丹(キリスト教)の信者は拡大していきました。ザビエル来日から約70年間で、九州地方(鹿児島、平戸、豊後、大村)から、驚異的な速さで浸透していきました。その後、大阪の堺に拠点を移します。
1563年(永禄六年)に来日したルイス・フロイスらによって、政治の中心地である「五畿内(近畿圏)」への布教が進められました。1569年(永禄十二年)、織田信長はフロイスを迎え、布教を許可したので、京都や安土、大阪に教会やセミナリヨ(小神学校)が建設され、高山右近のような有力なキリシタン武将を輩出しました。
ルイス・ソテロは、仙台藩主伊達政宗を動かし、ローマ教皇のもとに慶長遣欧使節(1613-1620)を送り出しました。こうした流れもあり、東北地方においても劇的な広がりを見せました。ザビエルが日本を離れる際は、数百人の信徒数が、1570年頃には約3万人、1582年(天正10年)2月20日に、伊藤万生を含む4人が天正遣欧使節としてヨーロッパに派遣されました。その年の6月に、織田信長は、本能寺の変で死にます。そのころ日本全国には、15万人の信者がいたと言われています。天正遣欧使節団は、1585年(天正13年)に、ローマで教皇グレゴリウス13世に謁見し、1590年(天正18年)に帰国しました。
豊臣秀吉による伴天連(バテレン)追放令
安土桃山時代(1568~1600年)に、豊臣秀吉は、日本のほぼ全国を統一しました。当初は、キリスト教に寛容でしたが、九州平定を成し遂げた後から政策が変わります。1587年(天正15年)に、筑前国箱崎において宣教師の国外追放を命じる「伴天連追放令」を発布しました。キリスト教の布教が日本の封建的秩序(主従関係)を侵食することへの危機感があったようです。
秀吉が発した十一箇条の「覚」および五箇条の「定」において、宣教師が「知行」を持つ大名を改宗させ、門徒を強制的にキリスト教に引き入れることを「神社仏閣を破壊する」行為として厳しく批判しました。1596年(慶長元年)にスペインの「サン・フェリペ号」が土佐(高知)に漂着します。翌年スペイン人の宣教師を含む26人が長崎で処刑(磔の刑)されます。
徳川家康のキリスト教禁教令
徳川家康によるキリスト教政策は、当初は、黙認しポルトガル商人との貿易は重視していました。布教の最盛期には、50万人から70万人に達したと推計する研究者もいるようです。当時の日本の総人口が約1,200万〜1,800万人程度であったと推定されることを考慮すれば、人口の約2〜4%がキリスト教徒ということになり、現代の日本におけるキリスト教徒の割合(約1%)を大きく上回る勢いだったことが分かります。
禁教の直接的な契機となったのは、1612年(慶長17年)に発覚した「岡本大八事件」でした。これはキリシタン大名・有馬晴信の旧領回復を巡る贈収賄事件でした。幕府は直轄領(天領)に対して禁教令(伴天連追放之文)を発出し、翌1614年(慶長19年)にはこれを全国へと拡大させた。
「日本は神国であり、仏国である」という国家観が再確認され、相容れないキリスト教を排除することで、幕府の統治の正当性を強化しようとしました。1600年のリーフデ号漂着以降、布教を伴わないプロテスタント国(オランダ・イギリス)との接触が始まり、1609年にはオランダ商館が設立されました。カトリック諸国(スペイン・ポルトガル)に頼らなくても海外貿易ができる見通しが立ったので、強硬な禁教政策へと踏み出したと考えられています。
「鎖国」体制下の「切支丹」
1622年に、国内で摘発されたイエズス会・フランシスコ会・ドミニコ会の宣教師18名、修道士3名と日本人信者34名が長崎で処刑されました。
徳川家康によって開始された禁教政策は、三代将軍の徳川家光の時代に、いわゆる「鎖国」体制の完成とともに極点に達しました。1630年代の一連の御触書(鎖国令)は、海外との窓口を制限し、日本国内からキリスト教の痕跡を物理的・組織的に完全に抹消することを目的としていました。
1637年(寛永14年)にキリシタン農民を中心とした「島原・天草一揆」がおきました。15歳の天草四郎時貞を大将に37,000人で、およそ12万人の幕府軍に抵抗しました。一揆鎮圧後の1639年(寛永十六年)には、幕府はポルトガル船の入港を禁止しました。キリスト教を排除するための社会的な監視・管理システムを制度化していきました。「寺請制度(てらうけせいど)」は、は庶民一人ひとりが檀那寺(菩提寺)から「この者はキリシタンではない」証明(寺請証文)を受ける制度を義務付けました。江戸幕府および諸藩が定期的に住民の宗教(宗門)を調査する「宗門改め」制度も普及しました。宗門改役が設置され、檀家帳や宗門人別改帳を基にキリシタン摘発のため毎年宗教審問を行われました。こうして、日本人は宗教的アイデンティティを公的に管理されることとなり、キリスト教徒ではないことを証明し続けなければならない社会構造が確立されました。
江戸幕府は、イエス・キリストや聖母マリアの像を描いた「踏絵」(ふみえ)を準備しました。それを踏ませる「絵踏」(えぶみ)を試みることにより、隠れているキリシタンをあぶり出すための「捜査」の手段として導入されました。次第に全領民がキリスト教徒ではないことを証明するための「年中行事」へと変化していきました。特にキリシタンの多かった長崎では、毎年正月の行事として定着し、乳幼児から病人、高齢者に至るまで、一人残らず絵踏を行うことが義務づけられました。役人は名簿(宗門改帳)と照らし合わせながら、誰がどのように踏んだかを厳格に監視しました。
信仰の対象を物理的に汚させることで、信徒に精神的な苦痛を与え、信仰を放棄(転び)させる「心理的拷問」をかけました。これに耐えかねて信仰を露呈する者や、踏んだ後に深い自責の念から潜伏生活に入る者が続出しました。当初は紙に描かれた「紙踏絵」が用いられましたが、すぐに破れるため、木製の板に像をはめ込んだ「板踏絵」が作られ、最終的には幕府の手によって鋳造された頑強な「真鍮(しんちゅう)踏絵」が普及しました。踏絵は、1858年(安政5年)の開国に伴い、西洋諸国からの批判を受けて廃止されるまで、約200年間にわたって日本人の宗教観と社会構造を縛り続ける象徴的な道具となりました。