詩篇(1909年,左近義弼訳)緒言

三六 詩篇中の聖名。

(ア)ヤーェ。 この聖名は舊約聖書中に 六千八百二十三度 用ゐられてゐる。
從來 この聖名の「ヱホバ」と誤唱せられた理由は 抑も この「ヤー(無窮の存在者)」と云ふ聖名を口にするは 誠に恐れ多い事として 筆には「ヤーェ」と書きながら 口には「アドナイ(主)」と唱へたのが 後世に成つて 途方もない滑稽な渾名の様な「ヱホバ」と云はるる次第に成つた。紀元前五百八十六年のバビロニヤ捕囚より 選民は 亡國の民と成ると共に ヒブリ語も 死に果てて、往昔より神聖なるものとして 尊まれた言語は 少數の教育ある人人の間にのみ保存せられた、夫より幾世紀にして その聖書さへも 古の如く正確に誦唱せられぬ様に成るに連れて 第一に聖徒の心を痛めたのは この聖名の唱へ方であつた。聖名を書いてままにして置けば「ヤーェ」と唱へて 誰も「アドナイ」と呼ぶ者が無い事は當然である、さて 如何にして「アドナイ」と唱へさせやうかと隨分苦心したのであつて、その工風の結果 まづ「ヤーェ」と云ふ語を綴る子音文字に「アドナイ」と云ふ語を發音させる母音記號を加へて、爰に實は「ヤーェ」と書いてはあるが 之は「アドナイ」と唱ふべきものであると示した積りであつた、その趣は 丁度「豊臣秀吉」と書き乍ら尊敬 の餘り 之を「トヨトミとよとみ ヒデヨシひでよし」とは云はずして 時の尊號「太閤様」と唱 へ、かく 己の唱へし通りに後の子弟にも傳へやうと思ひて「豊臣秀吉タイカウサマ」に「タイカウサマ」と振假名を附けて置いたのが 後世に成つて「豊臣秀吉」の四字が實際「タイカウサマ」と云ふ字音・字義のものと誤解せらるるのと一様である。勿論 今日「ヱホバ」と云へば 英語でも日本語でも一般の通り名に成つてるけれども その字義上よりすれば 全く無意味である、けれども「ヤーェ」と云へば 自然に「無窮の存在者」と云ふ莊嚴な印象を心に深く徹せしむるのである。

(イ)ヤー。 この聖名は:ヤーェを縮めたもので、始めて 出埃及記一五の二に 見える、主に 詩に 用ゐられてる。舊約聖書中に 五十度程用ゐられてる。

(ウ)ル。 この名の字義は「強き者」である、舊約聖書中に 神を指して 此 語が二百十七度 用ゐられてある、其他天使や・大なる事物を現すに八十五度用ゐられてある。

(エ)ロヒム。 ロヒム(神)は實際は複數である、神・天使・裁判官等にも用ゐられたる名である。この名が 詩に用ゐられてあるのは單數で「エロア」である。この名の單複數或は他の聖名と合せ用ゐられてるのが舊約聖書中に三千度位ある。詩篇の内に ロヒムを用ゐてある詩は
(い)コーラ集からのが 四二――四八、四九(?)である、此等の中に ロヒムが三十六度ある。
(ろ)ダビデ集からのが 五一――六五、六八――七〇、七二である、此等の中に ロヒムが百二度ある。
(は)アサフ集から 保存せられた詩(五〇、七三――八三)が 凡て ロヒム集にも轉載せられてある。此等の中に ロヒムが 四十度ある。
(に)孤兒詩(六六、六七、七二)に ロヒムが 十八度ある。

(オ)ドナイ。 ユダヤで用ゐられた聖名「ドナイ(主)」は 北方イスラエル
で用ゐられた聖名「バアル(主)」と 同一である。 (カ)バオス。 この聖名「セバオス」は 始め イスラエルの軍隊の事であつたが、次にエジプトやアッシリヤやバビロニヤの軍隊をも含み、次に天の日月星辰を含めて云ふ大衆或は萬軍となつた。

(キ)ルヨン。 この聖名「エルヨン(最高者)」は 神にも・天使にも・王にも當てられてある。

(ク)ャダイ。 ャダイは 大能者との義である。

詩篇(左近義弼訳)について

左近義弼(1865-1944, 慶応元年-昭和19年)は、青山学院の教授で日本の聖書学者、聖書翻訳者。1892年からドルー神学校で、James StrongやRobert W. Rogersに師事してヘブライ語とギリシャ語を学ぶ。ユニオン神学校で、F. Brown, C. A. Briggs, C. P. Fagnaniらに師事し、聖書原語を学ぶ。E.C. MitchellやW.R. Harperからの指導も受ける。メソジスト派の牧師。1904年頃から和訳を始め内村鑑三の「聖書之研究」の中で「ロマ書」(1905年)などが掲載され、その他の雑誌にも投稿されている。

単行本としては、「マタイの伝へし福音書」博文館(1907年)、「詩篇」聖書改訳社(1909年)、「創世記」聖書改訳社(1911年)、「耶蘇伝 新約聖書」編訳 聖書改訳社(1914年)、「耶蘇教の初代-使途行伝」訳編 聖書改訳社(1919年)、「ヨハネのつたへし福音書」第一書房(1942年)がある。

「詩篇」、「創世記」、「耶蘇傳 新約聖書」、「耶蘇教の初代ー使途行伝」に、「ーヱ」や「ヤウヱ」の形で、神のお名前を使っている。

出展: 近代文献人名辞典(β)
ページの版番号: 20961

タイトルとURLをコピーしました