江戸時代末から第一次世界大戦
- 1837カール・ギュツラフが邦訳『約翰福音之伝』をシンガポールで出版
- 1854江戸幕府は日米和親条約により鎖国(215年間)を終了
- 1859チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表
- 1859J・Cヘボン、S・Rブラウン、フルベッキらが来日する
- 1865-横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドが広がる
- 1872-90日本国内の主要プロテスタントが法人化
- 1879「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌の創刊
- 1880東京聖書翻訳委員会が「新約全書」を刊行
- 1881ウェストコットとホートによるギリシャ語定本の刊行
- 1887和訳完訳聖書「明治元訳」の完成(エホバ=7,331回)
- 1894-95日清戦争
- 1904-05日露戦争
- 1914-18第一次世界大戦
現存する最初期の邦訳ギュツラフ訳聖書
1832年(天保3年)、遠州灘で遭難した「宝順丸」の乗組員のうち、生き残った尾張国出身の漂流民である岩吉、久吉、乙吉の3人(いわゆる「三吉」)は、1833年末に北アメリカ大陸(現在のワシントン州フラッタリー岬付近)に漂着し、ハドソン湾会社のイギリス人に保護されてロンドンへ送られました。その後1835年にロンドン経由でマカオに移送されました。東アジア伝道でマカオを拠点としていた、プロイセン出身のルター派(プロイセン福音主義教会)宣教師カール・ギュツラフは、彼らを保護しました。そして、彼らから日本語を学びつつ聖書翻訳に着手しました。
翻訳の協力者が学者ではなく農民出身の船乗りであったため、翻訳語に尾張地方の方言や庶民的な表現が混入しました。ギュツラフは仏教用語を転用してキリスト教の教理を説明しようとしました。例えば、「神(God)」を「極楽(ゴクラク)」、ロゴス(言)は「カシコイモノ(賢いもの)」と訳しました。読みやすいように片仮名で表記されシンガポールで1690冊印刷しました。1837年(天保8年)、ギュツラフは刊行されたばかりの『約翰福音之伝』(ヨハネ福音書)および『約翰上中下書』(ヨハネ第一~第三の手紙)を携え、米国オリファント商会の商船モリソン号に乗船して、日本人漂流民7名(ギュツラフが保護した「三吉」を含む)の帰還を名目に日本への入国を試みました。
しかし、江戸幕府の異国船打払令により、浦賀港と薩摩の山川港で砲撃(後にモリソン号事件と呼ばれる)を受け、日本上陸は阻止されました。このため、ギュツラフ訳聖書が日本国内で直接配布されることはありませんでしたが、その写本や印刷本は後に来日するヘボンやブラウンなどのプロテスタント宣教師たちの手に渡り、明治期の本格的な聖書翻訳のきっかけとなりました。
開国後の動き
1858年(安政5年)の日米修好通商条約の締結を機に、米国キリスト教諸派は日本を新たな伝道地として位置づけていました。当初は、日本人への直接布教は厳禁だったので、初期のプロテスタント宣教師たちは、医療や英語教育、翻訳活動といった間接的な宣教を通して、主に下級武士の知識層の間に深く浸透してきました。
1859年(安政6年)に来日した最初の宣教師たちは、米国聖公会からはジョン・リギンズ(John Liggins)とチャニング・ウィリアムズ(C.M. Williams)が長崎に、米国合衆国長老教会からはジェームス・カーティス・ヘボン(J.C. Hepburn)が神奈川に上陸しました。また、米国オランダ改革派教会からはサミュエル・ロビンス・ブラウン(S.R. Brown)やグイド・フルベッキ(G.H.F. Verbeck)らが来日しました。
ヘボンは横浜で医療活動に従事しつつ、日本初の本格的な和英語林集成(辞書)を編纂し、「ヘボン式ローマ字」を確立しました。また、ブラウンやフルベッキは私塾を開き、後の明治政府の中枢を担う若者たちに英語や万国公法(国際法)を教えました。彼らの教育活動は、単なる語学教育に留まらず、西洋的な民主主義や倫理観を伝える場となり、これが後の「横浜バンド(横浜公会)」などの自立的な日本人教会形成の母体となりました。
明治新政府1868年に成立
1868年(慶応4年)「五箇条の御誓文」を公布し、新たな政府を樹立します。とはいえ「五榜の掲示」の第三札に示されるように、切支丹・邪宗門の禁止を打ち出しキリスト教抑止を継続します。近代国家を掲げる明治政府が、宗教弾圧を続けていることは、欧米諸国の非難を招きました。1872年に、フランス・アメリカ・イギリス・オランダの四か国公使が連名で日本政府に抗議文を出します。
「安政の五か国条約」の改正を求めた、特命全権大使の岩倉具視の使節団に対しても、信教の自由が条件であることが指摘されました。明治政府は、1873年(明治6年)「キリシタン禁制高札」を撤廃し、禁教令を廃止しました。1889年に制定された明治憲法(大日本帝国憲法)では、第28条で「信教の自由」を条件付きで認めるようになりました。
翻訳委員社(Bible Translation Committee)
明治時代の聖書翻訳とキリスト教の拡大において、米国聖書協会(ABS)、英国聖書協会(BFBS)、およびスコットランド聖書協会(NBSS)の果たした役割は、単なる「資金援助」の枠を超え、翻訳の標準化、印刷技術の導入、そして全国的な流通網の構築という多方面に及びました。
米国聖書協会(ABS)と英国聖書協会(BFBS)は、宗派を超えた共同翻訳(委員社による翻訳)を強く促しました。1872年(明治5年)の横浜宣教師会議において「翻訳委員社(Translation Committee)」が発足した際、宣教師側は、J.C.ヘボン(長老派)、S.R.ブラウン(改革派)、D.C.グリーン(組合派)、R.S.マクレイ(メソジスト)、N.ブラウン(バプテスト)と日本人協力者たちによって構成されました。聖書協会は委員たちの生活費や日本人協力者への謝礼、さらには原典資料の購入費などを全面的に負担しました。
当初、ABS(主に横浜・東京を拠点)、BFBS(主に神戸・長崎を拠点)、NBSS(スコットランド)の三者は、活動地域や翻訳権を巡って競合関係にありました。しかし、1890年(明治23年)には、これら三つの協会が日本での活動を一本化する「日本聖書委員会(Bible Societies’ Committee for Japan)」を設立しデファクトスタンダードが確立されました。
1887年(明治20年)に「明治元訳」聖書が完成しました。特筆すべき点は、神のお名前を「エホバ(耶和華)」と、7,331回も訳出していることです。これは世界中で出版された聖書の中でも一番多く神のお名前を固有名詞として用いている聖書です。もちろんヘブライ語の持つ力強さを文語体でうまく表現した聖書なので、今でも多くの人に愛されています。
1874年(明治7年)に米国聖書協会(ABS)が最初の頒布員(コルポーター)を任命しました。当初は外国人の宣教師が直接行っていましたが、すぐに日本人の頒布員が採用されました。
コルポーターとは…
「コルポーター(Colporteur)」は、フランス語の「col(首)」と「porter(運ぶ)」を組み合わせた言葉に由来します。もともとは、聖書や宗教的なパンフレットを入れた箱やカバンを「首から提げて」歩き回る行商人を指しました。 19世紀、英米の聖書協会はこの制度を組織化し、世界各地の宣教地に導入しました。彼らは単なる「本売り」ではなく、聖書を売り歩きながら、その内容を説明し、人々の相談に乗る「開拓伝道者」としての性格を強く持っていました。
日本の明治期の記録では、英語の「Colporteur」の訳語として以下のような名称が使われました。
聖書頒布員(せいしょはんぷいん):最も一般的な公称。
聖書行商人(せいしょぎょうしょうにん):活動の実態に即した呼び方。
聖書取次人(せいしょとりつぎにん):初期の記録に見られる名称。
1887年(明治20年)に旧約聖書が完成し、いわゆる「明治元訳」が揃った時期、聖書の頒布数はピークを迎えます。米国聖書協会(ABS)の1889年次報告書(1888年度の活動記録)によれば、日本国内での頒布実績は、総頒布冊数が164,124冊、その内訳は、聖書全書(旧新約)が850冊(高価なため、主に知識層や教会員向け)、新約聖書が17,505冊、福音書などの分冊が145,769冊でした。
約50名の専属頒布員の、総移動距離は、年間約35,700マイル(約57,450km/地球約1.4周分に相当)に及びました。訪問件数は、年間で延べ数万軒の家々を戸別訪問したと記録されており、一日の平均訪問件数は40〜60軒に及びました。頒布の拠点は東京・横浜・大阪・神戸といった都市部から、コルポーターの活動により、鉄道の未発達な東北地方や九州の農村部、さらには北海道の開拓地まで網羅されていました。特に「ポーション」と呼ばれる一冊数銭の安価な分冊は、非キリスト教徒が初めて聖書に触れる「入り口」として圧倒的な数を占めました。
脚注…
日本聖書協会監修『日本聖書協会百年史』(日本聖書協会、1975年)62-65頁。
1Annual Report of the American Bible Society, 1889 (New York: American Bible Society, 1889), pp. 142-145.
2日本聖書協会監修『日本聖書協会百年史』(日本聖書協会、1975年)82-88頁。
3The Bible in Japan: A History of the Work of the Bible Societies (BFBS Archive, 1904) に記載された1880年代の名古屋伝道の記録より。
4海老澤有道『日本の聖書:聖書翻訳の歴史』(講談社学術文庫、1989年)162-165頁。
プロテスタントの主要宗派
長老・改革派系統(日本基督教会)
1872年(明治5年):横浜にて日本初のプロテスタント教会「日本基督公会」を設立。米国の長老派宣教師T.T.アレクサンダーら大阪北教会(1882年設立)。大阪南教会(1885年設立)
- 海外宣教者: J.C.ヘボン(長老派)、S.R.ブラウン(改革派)、G.H.F.フルベッキ(改革派)
- 国内の主だった人物: 奥野昌綱、井深梶之助(明治学院総理)、植村正久(東京神学社創設)
- 教理:カルヴァン主義(正統主義)。三位一体を厳格に保持。救済は神の恵み(予定説)に拠る。天国と地獄(永遠の刑罰)を明確に説く。
- ミッション・スクール:明治学院(1877年)、フェリス女学院(1870年)
組合派系統(日本組合基督教会)
1874年(明治7年):D.C.グリーンらが神戸・大阪教会(1874年設立, 宮川経輝)を設立。翌1875年に同志社を創設。浪花教会(1877年設立, 沢山保羅)
- 海外宣教者: D.C.グリーン、J.L.アトキンソン
- 国内の主だった人物: 新島襄(同志社創立)、小崎弘道、海老名弾正(本郷教会)
- 教理:リベラル(自由主義神学)。三位一体は人格的に解釈。死後の裁きより、現世での「人格の完成」と社会改革を重視。
- ミッション・スクール:同志社英学校(1875年、新島襄)
メソジスト系統(日本メソジスト教会)
1873年(明治6年):R.S.マクレイらが来日し、伝道を開始。
- 海外宣教者: R.S.マクレイ(米メソジスト監督教会)、D.マクドナルド(カナダ・メソジスト教会)
- 国内の主だった人物: 本多庸一(初代日本メソジスト教会監督)、山室軍平(救世軍※元メソジスト)、相原英賢
- 教理:体験的信仰。三位一体を遵守。救済後の「清め(聖化)」と、社会奉仕への情熱を特徴とする。
- ミッション・スクール:青山学院(1874年)、関西学院(1889年)
聖公会系統(日本聖公会)
1859年(安政6年):C.M.ウィリアムズ、J.リギンズが来日。(日本聖公会発足は1887年)
- 海外宣教者: C.M.ウィリアムズ、J.リギンズ
- 国内の主だった人物: 元田作之進(初代日本人立教大学総長)、杉浦貞二郎
- 教理:中道(ヴィア・メディア)。古代信条による三位一体を重視。典礼と秘跡(洗礼・聖餐)を通じて救いが与えられる。
- ミッション・スクール:立教大学(1874年)
バプテスト系統(日本バプテスト東部・西部組合)
1873年(明治6年):ネイサン・ブラウン、J.ゴーブルが横浜に来日し、伝道を開始。
- 海外宣教者: ネイサン・ブラウン(聖書翻訳者)、J.ゴーブル
- 国内の主だった人物: 千葉勇五郎(関東学院院長)
- 教理:全身を沈める「浸礼」と成人洗礼。徹底した民主的運営と、国家からの良心の自由を重視。
- ミッション・スクール:関東学院(1884年)
ホーリネス・福音派系統(日本ホーリネス教会)
1901年(明治34年):中田重治、C.E.カウマンらが東京・神田に中央福音伝道館を設立。
- 海外宣教者: C.E.カウマン(東洋宣教会)
- 国内の主だった人物: 中田重治
- 教理:根本主義。四重の福音(新生・聖化・神癒・再臨)。イエスの再臨を間近に待望し、地獄の審判を強く警告する。
- 学校:東京聖書学院(専門学校)
6. ルター派(日本福音ルーテル教会)
宗教改革の原点であるルターの精神を継承し1893年(明治26年)佐賀にて伝道開始。
- 海外宣教者: J.M.T.ウィナード、C.L.ブラウン
- 国内の人物: 山内直丸
- 教理: 信仰義認(信仰のみによって救われる)。聖餐におけるキリストの臨在を重視。
- ミッション・スクール: 九州学院、ルーテル学院大学
セブンスデー・アドベンチスト(SDA)
1896年(明治29年):W.C.グレンジャーと奥平照が来日。
- 海外宣教者: W.C.グレンジャー(W. C. Grainger)、奥平照(Teru Okohira/日系人伝道者)
- 国内の主だった人物: 国谷(くにや)国主
- 教理:安息日(土曜日)の遵守。再臨の時まで死者は「眠っている」とし、悪人は最後に「消滅」すると説く(消滅説)。健康・医療伝道を重視。
10. クエーカー(キリスト友会)
1885年(明治18年)にJ.コサンドが来日
- 海外宣教者: J.コサンド
- 国内の人物: 新渡戸稲造(後に入会)、新渡戸万里子
- 教理: 儀式や聖職者を置かない。徹底した非戦・平和主義。
- ミッション・スクール: 普連土学園
YMCA(キリスト教青年会)
1880年(明治13年)の東京YMCAが発足しますが、初期メンバーは、初代会長の小崎弘道(組合派)で、井深梶之助(長老派)が副会長、植村正久(長老派)や、津田仙(メソジスト派)、内村鑑三(無教会派の源流)も創立に関与していました。
YMCAは「キリスト教諸派協調のプラットフォーム」として機能してきました。帝国大学(現・東京大学)などの高等教育機関に浸透していきました。1889年に始まった「夏季学校(学生聖書研究会)」は内村鑑三の提言によるものでした。次第にYMCAが社会事業や組織化を強め、欧米流の活動(社交や体育)に傾斜していくと、聖書のみに拠る信仰を重視する内村鑑三は「世俗化」と批判して、距離を置くようになりました。
1891年(明治24年)には東京、長崎、大阪、函館に日本司教制を確立し、「日本カトリック教会」の体制を整えていましたが、YMACAの実態がプロテスタント諸派の連合体のため、カトリック教会は関わらない立場をとっています。1920年(大正9年)、教皇庁(バチカン)の検邪聖省は、カトリック教徒がYMCAに参加することを警戒し、公式に注意を促す通達を出しました。
1861年(文久元年)ロシア正教会のニコライ・カサートキンは、 函館のロシア領事館付司祭として来日しました。1872年(明治5年)東京伝道の開始し、1891年(明治24年)ニコライ堂を完成しました。
ロシア正教会(日本ハリストス正教会)とYMCAの間には、カトリックのような先鋭的な対立は少なかったものの、やはり「教会の伝統」を守る立場から一定の距離がありました。
無教会派
プレマス・ブレズレン(Plymouth Brethren)の日本における活動は、1888年(明治21年)に、英国の「オープン・ブレズレン(Open Brethren)」の背景を持つH・G・ブランド(Herbert George Brand,1865-1942)の来日によって始まりました。1889年10月にキリスト同信会が始まり、「白洋舎」創業者の五十嵐健治や乗松雅休が加わるようになりました。
「教会」という名称を避け、「キリスト集会」や「福音伝道館」という呼称を用いました。既存のキリスト教教派が「制度化」されていることを批判し、新約聖書の時代のシンプルな信仰共同体への復帰を説きました。
1901年(明治34年)の内村鑑三による雑誌『聖書之研究』創刊をもって実質的に無教会派が開始されました。無教会派は、制度化された教会を排し、個人と神との直接的な関係を重視していました。内村鑑三が「無教会」を提唱し始めた時期、彼は欧米の宗教事情を研究する中でブレズレンの存在に注目しました。内村は、制度としての教会や礼拝形式を否定するブレズレンのあり方を、「西洋における無教会の先例」として評価しました。
「二つのJ(JesusとJapan)」を打ち出して、日本人が持つ「武士道(義・勇・仁・礼・誠)」という精神的土壌の上で理解しようとしました。無教会派の特徴として、儀式などを行わない代わりに、学問的な聖書研究を極限まで重視しました。
内村鑑三は、「明治元訳」を愛用しながらも、その不十分な点を指摘し、常に原典に立ち返る姿勢を崩しませんでした。内村鑑三自身が翻訳した聖書が『聖書之研究』に掲載されました。日本人として初めてギリシア語原点から単独で翻訳した永井直治の『新契約聖書』 (1928)も、内村鑑三に評価されました。
日本メソジスト教会の指導的な立場にあった青山学院教授の左近義弼の翻訳も評価していました。 「ヘブライ語は左近君」と一目を置いた外部の専門家として、旧約聖書(ヨブ記や詩篇など)の講義をする際、ヘブライ語の厳密な解釈で行き詰まると、しばしば左近義弼に意見を求めたそうです。
日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦
1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて朝鮮半島をめぐる対立によって「日清戦争」が起き、1904年から1905年にかけて、日本とロシアが朝鮮半島と満州の支配権を巡って戦った「日露戦争」が勃発しました。
特に、この時期の日本のプロテスタント諸派が取った立場についての考察が、「正戦と反戦:日露戦争に対する日本のメソジスト教会の二つの立場」という論文の中で、示されていました。
近代日本が帝国主義国家となる助けとなった日清戦争において、日本のキリスト教界は、東洋の恒久平和を維持するための「義戦」という口実の下で戦争を支持した。戦争に協力することで、キリスト教界は日本国民としての市民権を得ようとした。彼らは、キリスト教は反国家的な宗教ではなく、むしろ国家と国益にとって有益で役立つものであると主張した…(中略)
日露戦争に対する多くの日本人キリスト教牧師や信徒の態度と協力は、日清戦争の時と大差なかった。開戦直後、海老名弾正、小崎弘道、井深梶之助、本多庸一らを含む宗教指導者グループは、人道的原則と正義を推進するための共通のコミットメントを誓う公式宣言を出した。日本のキリスト教指導者たちは、キリスト教と国家への忠誠を一息に説くことができた。彼らは日露戦争は宗教や人種の対立ではなく、平和と文明のための戦争であると宣言した。1905年、日本のキリスト教界の指導部は、フランスやオランダなどで開催された「世界学生キリスト教連盟大会」などに参加し、日露戦争の正当性を擁護して回った。当時のキリスト教指導者たちは、防衛的な態度で戦争に臨んだだけでなく、戦争の意義を積極的に認め、それを提唱した。日本人キリスト教徒は、キリスト教を国家アイデンティティに統合し、キリスト教に日本独自の文化的特性を注入しようと努めたのである。…(中略)
しかし、ほとんどのキリスト教徒が積極的に戦争を支持していた日露戦争中、日清戦争時には聞かれなかった少数のキリスト教徒による非戦の声があがった。例えば、日清戦争中に著名なキリスト教知識人である内村鑑三は「日清戦争の義」を書き、これが朝鮮を守るための義戦であると主張した。しかし、戦争の犠牲が明らかになり、日本の朝鮮政策や民衆の悲惨さに疑問を抱くようになると、戦争に対する態度は著しく変化した。彼は積極的に非戦論を唱えた。非戦論者たちは聖書を用いて戦争廃止を広めた。