- 1839江藤清助が福井県で生まれる
- 1846清助7歳で大阪船場の若狭屋の養子になる
- ラベル開国
- ラベル清助三十二歳、シメ二十歳と結婚
- ラベル二男栄吉郎の誕生明治10
- 1885江藤義資の江藤書店(東京京橋区三十間堀二丁目一番地)
- ラベル尚美堂
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私 の 生 立 ち
明治十年、ちょうど私の生まれた前後の時代、私の父清助は子供二人(姉もとと兄清次郎)を抱えて夫婦で呉服商を営んでおりました。その時分同居して居られた俗に居候格の叔父(私の父の義弟)儀助さんは、気の利いた子の走った人で、派手で器用で金使いが荒く、世に謂う飲む打つ買うの三拍子の揃った人であったが、之とは全く反対に地味で堅実一方の父とは自ずと反りが合わず、それのみ常に欠がなやみの種であって、お互に日々気まずい思いを持って暮らしつゝあった。
この雰囲気の中で何とか義理の兄弟の間柄を甘く円満にと、日々に心を砕き或る時は叔父の夜遊びや夜泊りを掩い隠したり、また或る時は小遣いのお金を父には内密に与えたりして幾回となく父への無心の度数を減じさせようと一方ならぬ苦労をしたのは母であった。その父母の気苦労を察しつゝあった父は「まあ、良くも辛抱して、いつも極道者の面倒を見て呉れる、今に稼ぎも貰って別居させてやるから今暫らく」と度々言を尽して慰めるのであった。
明治十五年の秋頃のこと、叔父は五六日の外泊や、音信の不通や、行衛不明のことなどは、常のことであったが、今度は如何にせしか、心当りなど隈なく尋ねたのだけれど、杳として便りを絶って仕舞ったのであった。然るに明治十八年の春のこと、突如として一通の郵便が届いた、差出人としては東京市京橋区三十間堀二丁目一番地江藤義資と消判が押してあるではないか、驚いて披いて見れば正しく叔父儀助よりの手紙であった。而して夫れには過去の罪障を言葉を尽して深く詫び、そして今は真人間となり表記の所に家を構え妻をも迎え、また米国聖書会社の特約店となり、汎く基督教書籍の出版と販売をして居る、近く是非御礼の為め一度大阪へ下り親しくお目に掛り色々積るお話を申し上げたいとあった。父も母も之を見ては飛立っ許りに喜んで、以前の不快なども打ち忘れ、それ以来一日も早くその会う日の来るのを鶴首して待ったのであった。然しながら又一面には巧妙な彼の事ゆえ、或は又例の手段で欺くのではないであろうかとの不安もないではなかった。
日ならずして、叔父は来阪した。その姿はまさに出立した当時の遊蕩人姿のみじんもなく、新生の立派な風姿に接しては、何よりも先ず涙の喜びを以て迎えたのであった。後日曰く、全く過し日には我儘放蕩の限りを尽し、兄上や姉上の忍耐強き御懇切に対し始終相背き長き歳月の間、御迷惑をお懸けして何共申訳なく、何を以てお報い申すべきか、其の厚き御恩に対しては到底お報い申すべき何ものも持ちませんが、然し、此度態々下阪致しましたに就ては、爰に唯一つお是非お受けして頂きたいお土産を持って来ました。それは外でもありません、実に此の私を今日のように新生活に入れて下さったのは基督の救の道であります、これを兄上や姉上が聞いて下さって、私同様大なる安心と喜びを持って下さるように基督を信じて頂きたいのであります。
この度の下阪は之を持って来るのが唯一の目的であり、お土産であるのであります。そして唯一つの御恩返しとしたいのであります云々と。それから自分が基督者になったまでの道程を話されたのであった。曰く
先年大阪を離れて出奔したのは、例の通り堂島に米相場を張り、大失敗して二進も三進もならず、全く首も廻らぬ始末となり、もはや一日も大阪に居られなくなり、一時西京まで身を匿くせしも、遂に東京へ出て大に奮発しようと決心し、僅かな路銀にても神戸より海路横浜を経て東京に入り、東京にても彼方此方と頼る所もなき身の口入屋などに入りしも思わしき所もなく、揚句の果ては、過去の罪を悔しに一層僧侶になろうと志し、先ず頭髪を剃り而して今生の思出にと、通りの酒屋に入り、したたか酒をあおりし所、歩く中にソロソロ睡気を催せしゆえ、とある基督教会に説教があるとして呼び込まるゝ儘に内へ入りしも説教を聞く所でなく、その儘そこに寝入ったのである。説教も終り聴衆の凡てが帰りし後、ひとり椅子に横わりて熟睡せるを発見した牧師は之を起し、其の夜は牧師方に客となり、それより諄々とキリストの福音を聴かせられ遂に悔改めて洗礼を受けるに至った。其の時よりは再生の記念として旧名の儀助を義資と改め、全くの新生活に入るようになり、和田秀豊牧師、石本三十郎牧師、その他米国宣教師らの知遇を受け、ついに京橋区三十間堀に基督書書籍を販売するに至り、更に妻を迎え、また鈴木庄兵衛と云う忠実な支配人を持つようになったのであると云う。
かくて叔父は滞阪中、何は兎もあれ何としても、何か兄上や姉上に対し、是非とも心からなる御恩返しをさせて頂きたき故、それには一つ長男の清次郎(当時十三歳)を此の大阪などで育ててよりは、私が預りして文明開化の時勢に副う教育をし、将来ウント立派なものにして差上げましょう。それには先ず東京へ遊学せしめ大学に入門せしむる為め、今から予備校へ入れて勉強させましょうと、語は忽ちまとまり、早速清次郎を伴い帰京せしは実に十八年十一月の事であった。
父も其の頃進取的気概に満ち、この叔父の奨めと実積を多として賛成したのである。続いて父も母も叔父の熱心な奨めにより、其の後神様の御恩寵と罪の悔いの救いを確信し、同年十一月まず大阪南区東清水町南一致教会に於て、家族一同と共に宣教師アレキサンダー師よりバプテマスを受け、一同は非常に新生の喜び輝き、東京との音信も為めに頻繁であった。当時のこの状態は東京に於て遊学中の長男清次郎(十三歳)が寄せた左の手紙により其の一班がうかがわれるのである。
(原文の儘)
拝啓 時下厳寒の砌に相成候処御家内中益々御壮健被下奉大賀候 小生も無事に居候故御安心被下度候 且又私過日より泰明学校へ入校致し別に二三日々に通ひ居候処健康上に障り之有候故泰明学校を辞し英書英読洋算読書を勉強致し候 読書は(日本外史)英語は(スペンセリヤン)英読は(スペリング)洋算は(新撰数学五千題)等を学び候又泰明学校より東京英和予備学校へ入校致す筈に候也
又御家内中洗礼御受被遊候由御手紙に拝見へ実に喜しき事と存じ候 小生も洗礼廿四日の安息日に受る筈に候処少しも都合之有候故来春第一の安息日に洗礼受る事に定り候 匆々頓首
一、御親族方へ宜しく御申被下度候
十一月廿四日 清 次 郎御父上様
御母上様
その頃、最も信仰の喜びに輝ける父は熱心の余り、当時自分の営む呉服商の如き商売政略に席を用いる風習は子供の将来に対し為めにならずとして、久しき老舗を弊履の如く一擲して廃業して仕舞い、其の代りとして基督教書類と学用品の販売を創めたのであった。然るに長男清次郎は十一月、東京に赴くや秀才に任せて英語、数学、歴史、漢籍など過重の勉強に加うるに翌十九年屋根より墜落して、脊部を強打せしより発熱して肺膿を起し、しかも慢性的に移行する模様となりたれば、遂に六月に至り、父に伴われて遙々陸路神戸を経て帰阪したのであった。其の当時父が我子の病気を気遣い態々上京して迎えに行った時の心持ちは左の母宛の手紙によりて顕われる。
扨廿六日神戸より海上無事に廿八日朝六時横浜へ着致し、船まで迎ひ人参り居り、一時も早く来られるよう前日より横浜へ(凡六時程欠損)病気の様子を聞くに以前よりよほど悪いと聞き、大ゐにしんぱい致し早速駈せ付け面会致し候処、又よほど持ち直し昨日今日は宜敷方と云ふ事にて候へ共何分我が見る処、お元の病気と似よりなり、早速お医者さん三名に面会し命の次第御尋ね候へば先只今の処にては余程良き方、十が六つ迄良くなる見込み不拘の六ヶ敷事故暫らく大切の場合、しかし我見る所、とても大阪では出来ぬ看病ゆへ今しばらくの間見分け、いよいよ宜敷方にきまり次第帰阪致し候間留守中心配せず火の用心大切に可被成先々大抵命に別条なかるべし日々全快次第報知致し候
三月廿九日 清 助 より
おしめどの尚ほ親類衆中へよろしく又教の兄弟姉妹衆へよろしく御伝へ可被下候
これは我が両親に於ては、長男を大なる希望の中に上京せしめた当時の喜びに比し、まことに信仰上に於ける一大試練であった。が、かくて夏の暑熱を病人は漸くに凌いだが、秋には又第二の試練が来た。それは長男の病気と業務の不振(其頃また新たにミシンの直輸入をも創めたりして)とに懊々として憂うつな日を送りつつありし十月三日の夜の事、その頃有名な土蔵破りの泥棒にあい、大げさな数人連れにて箪笥三棹を全く空にし、冬衣、晴衣、さては洋服まで一切を搬羅して盗まれ、忽ち冬を前に控えて思いよらぬ災厄に遭ったのであった。然るに其の頃より長男清次郎は両親の熱烈な祈りの伴う苦心と、努力のこもれる慈愛の看護にも拘らず病勢は日々悪化し皆々憂うつな日を送る中に其冬の十二月三日遂に永眠したのである。然しながら両親は倍々神に対する信仰に輝き、確と永生を信じ少しも失望落胆しなかった。然るにここには又第三の一大試練は降ったのである、それは時も時、砂塵打ち巻く寒風の最も強く吹き荒さむ二十年二月八日のこと父は金曜日の祈祷会にと赴きし不在中の八時頃であった。隣地博労町稲荷社内にある彦六座より出火し、火は強風にあおられて忽ち燃えさかり、父が祈祷会より帰った頃は早や我が家の二階にまで火が移って燃えつつあったのであったが、既に留守中に駆け付けられた知人、手伝人のため無茶苦茶ながら道具や商品などを漸く土蔵に押し込め得しのみにて、家屋は見る見る中に類焼して終った。これを見届けた父は此の時右手にランプと左手に枕を携えつつ親戚方に避難し来り、これ丈けあれば天下何処へ行っても大丈夫だと、其の心には信仰による落着きと余裕とを持っていたのであった。
翌朝に至り、家族は避難の家より我が家に帰り見れば、前日までの家は跡方もなく灰じんに帰し、大火の事とて二町四方は実に焼野原の光景にして、土蔵のみ惨憺たる姿にて孤影淋しく残って居るのであった、この日多数の知人や親戚たちはすしや握飯、バケツ、帚、煮物、乾魚など当座の必要品を夥しく贈り、狭い土蔵の中に雑然として積まれた道具の中に埋められ居る我が両親に対し同情を以ていと慇ろに慰問せられたのである。
然るに火事見舞いの人々の親切なる慰問に対し、父はまた燃え立つ計りの信仰により反って落ち着き払い、それら見舞客に対しキリストの福音を語り、慰問者をして心ならずも混雑中時のたつも忘れしむる有様であった。それが為め見舞客の中には「江藤さんは、僅か半期程の間に泥棒には遭う、長男は亡くなる、其の上今また火事で家は丸焼けになると言う、引続く不幸に気の毒にも少々気が変になったらしい」と噂された位であった。
さて火災後は商業も稍々退嬰的となり、随って書籍も学用品もミシンの売れ行きも一向捗々しくなく、更に鉄砲の卸売からメリヤスの製造などに商売替えをして見ても、何分五十歳を越えた晩年の仕事は凡てが堅実一方の消極的で、遂に何れもが成功せず加うるに或る日のこと、自分が土蔵内で掃除して居た時、高い台の上より墜落して脊部をたたき打ち、これが為め肋膜炎を引起し更に結核へ移行せんと心の気配が見えあるを以て(註曰、墜落して脊部を強打し肋膜炎を起したる症状の長男清次郎と同機なるは一奇と申すべし)遂に決心して自分は晩年に及び、とても新たに業を創むべきではないから、断然廃業し専ら静養に日を過す事にした。
かくて長男を失いて今は嗣子なる私に対し、曰く今後の時勢を按ずるに必ず将来は全部洋服を着する時代が来るから洋服屋をせよ、それには先ず技術を習得しなければならぬとて、私を南区塩町三丁目の中西洋服店へ洋服裁縫見習として入れたが、私はそれが自分の適職に非ず、寧ろ時計商を希望する旨申出でたところ快く容れられて、間もなく中西洋服店を辞し、当時間に教会の執事をたりし心斎橋一丁目の時計商堀米吉氏方へ三年間、時計職見習いとして入店せしは実に明治廿四年五月七日の事であった。後年に至り私は独立して尚美堂を開店することとはなったが、父は其の実現を見るに至らずして明治廿六年二月廿七日永眠したことは、まことに遺憾の極みであった。
さて前記、火事類焼見舞客の中に織田謙なる人があった、此の人は漢籍を良くし囲碁の心得もあり、心理学研究の趣味者として、父とは可なり親密な間柄であったが、その火事見舞を契機として引続き父より度々キリストの福音を聞かれたが、父の存命中には未だ洗礼を受けられた事は聞かなかった。然るに昭和七年九月十日その織田謙氏が永眠せられ、葬儀は大阪南区日本橋筋一丁目自由メソヂスト教会に行われた。その際述べられた同氏略歴の中に、謙氏は始め親友江藤清助より神の福音を聞き云々の意外な言葉は、会葬者たりし私の耳底には最も強く響き、いま目の当り堂に満つる会葬者五六百名と思われる此の盛儀を前に、神の奇しき御働きに感動したのであった。けだし謙氏の息子三郎氏は同教会に於ける篤信の長老として大に教会の為め貢献せられ、更に三郎氏の息即ち謙氏の孫は其の頃米国神学校に留学せられ、近く帰朝せられ謙と聞きかされたことであったのである。(此外に当時父より福音を聞き入信せし人に俳句の名士山本露滴氏もある)
ああ、放蕩を極めたる叔父が、窮余東京の某教会に於て心開かれて信仰を与えられた一粒の種がもととなり、それが私の家庭に及び、更に又私の父の苦難を通して火災中に述べた福音が枝と延び、織田謙氏の入信となって果を結び、更に又織田謙氏の熱心なる働きと聖化し、そこには又より良き果が結ばれて教役者までも其中より生れて、更に更に多くの善き果を結ばしめんとし給う此の奇しき聖業こそ誠に「これらの事は皆神より出づ」との御言の真実にして、神様の遠大にして善なる御働きなることを痛感し、感謝と共に御誉れを神様に帰し奉るのみである、讃美と栄光と尊貴とは万世までも神のものである。
何故聖書を読まなければならぬか?
一、この書はキリスト・イエスを信ずる信仰によりて救に至らしむる智慧を汝に与え得るなり、聖書はみな神の感動によるものにして、教誨と矯正と義を薫陶するとに益あり、これ神の人の全くなりて、諸般の善き業に備えを全うせん為なり。(テモテ後書三章十六節)
一、若き人は何によりてか其道を潔め、聖言に随いて慎むの外なきなり。(詩篇百十九篇九節)
一、汝の聖言はわが足の燈火、わが路の光なり。(詩篇百十九篇百五節)
一、われ汝の言を得て之を食えり、汝の言はわが心の欣喜快楽なり。(エレミヤ記十五章十六節)
以上のほか聖書の各所に記さるる所によれば、聖書はとりも直さず基督者の食うべき霊の糧とされております。糧と言えば我々は日々自己の肉体の健康の為めには心を用いて食餌による栄養の摂取を怠らない者であります。若し食餌を一度でも欠かさば忽ち衰弱を覚え、衰弱はまた力を失うのみならず、率いて病気を誘発するからであります。霊の糧も霊の健康(信仰)の上に同様の結果を来たらす事は、論を俟たない所であります。
然るに基督教者たる我々は果して日々肉体の食餌を取ると同様に、霊の糧をば前記エレミヤの言う如く取りつつありやと言えば、殆んど欠食或は断食生活が多い様に察せられるのであります。即ち信者の家庭に於て聖書の置場所さえ忘れられたり、或は久し振りの教会行に際し風呂敷にて表紙の塵を拭われたり、梅雨時分には白い黴さえ生えていると言う事です。其の霊の欠食断食の程度がほぼ窺われるのであります。(以上は自分の過去の生活を言い現わしたものであります)
私、嘗て平信徒である篤信なる先輩の聖書を借覧せしおり、其方の聖書愛読力に感激したのであります。それは聖書の始めより終まで等しく読まれてある事であります。然るに其の時私の聖書は見れば、常に読む場所のみは柔らかいが、其他の大部分は未読で紙が新しい儘のパリパリであったのであります。そこで忽ち私は大なる衝動を受けて、凡そ基督者たるものが信仰の基礎たるべき聖書を一通りさえ眼を通し終えずして、何の基督者でもあるまいと大に恥じ、それ以来創世記より黙示録までを必ず毎日一章以上づつ拝読する事に決意し、既に今日まで数回繰返しております。(それまで色々他の方法で毎日拝読を試みましたが一つも続きませんでした)斯く繰返します間に、屡々新しき教訓を受けるのであります。
然らば其の方法と申しますと、私は斯様にしております。即ち先ず毎朝洗面の直後まだ朝の食事を頂かない前、所謂其日の生活の初めに之を拝読する事、即ち霊の糧を頂くのであります。無論時には多忙の時もあり、又心忙わしい折に遭遇します事あれど、研究や深き味わいは別の時とし、兎も角も日課的に読誦するのであります。斯くして果して霊の糧となり得るやと問いたくなるのですが、これに就て或る英国の先輩は曰く「江藤さん、あなたは昨日のお昼の食事の献立が何なりしや憶えて居ますか、たとえ、それは忘れても滋養になって居ます」と言われました。
さて決心が着けば先ず拝読用の聖書を新調する事です。而して其の聖書の巻頭には記念として何年何月何日家内と共に読み初める旨を記入し、而して毎日其の読了した毎章の末には一々朱点を付け、また時には所感の要点をも上部に記入するのであります。而して旅行中の時にも、ホテルでも、汽車中でも、船中でも欠かさないのであります。そして数年後全巻を読了した時、再び巻頭に読了の記念文字を記入し、或は体得せし所感をも併記し、更に翌日よりは聖書を新調し前同様巻頭に記入して始めるのであります。かくて古い聖書は保存するか又は之を自分の後継者若くは愛する者に贈与するのであります。(其所感を記入しある聖書は、之を貰い受けた人にも非常に有益なものとなります)無論かく申す私は寧ろ論語よみの論語知らずで、何等深い真理など悟り得ぬ愚かなものでありますが、只主の御あわれみにより其の間少しづつでも学ばしめられるとともに、そこに育てて下さる御方の在まし給う事を教えられるのであります。曰く我は植え、アポロは水をそそげり、されど育てたるは神なり、されば植うる者も水そそぐ者も数うるに足らず、ただ尊きは育て給う神なり。(コリント前書三章六節)
とありますことを確か、と信ぜしめられると共に、永年の体験上より何としても聖書の精読が、基督者には是非必要であり、また非常に幸福であることを、謹んで申上げ且つお奨め致す次第であります。
はしがき
私は明治十年の一月、大阪に生まれまして、十才の十一月に両親の入信と同時に受洗せしめられ、十七才に及んで更めて信仰の告白をして、造物主の御仁慈の下に、ブランド、丹森太郎、林覚次郎等の諸先輩の御教導を受け、最も誘惑の多い青年時代に、特に聖書を精読する必要を強く教えられ、八十才の今日まで、毎朝一章以上を妻とともに拝読させて頂いて感謝している次第でございます。私は、生来、文字通り浅学非才で、ただ一介の小商人に過ぎない者でございます。その上に、日々繁錯する業務に忙殺されながらも、ひとえに造物主の御恩寵により、われわれが日々の肉体生活に食物を一度も欠かすことのできないように、霊の生活にもまた欠かすことのできない霊食としての聖言―「わたしは、み言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしの糧となり、心の楽しみとなりました」(エレミヤ記第十五章第十六節)を与えられましたのであります。そのうち、先生は、エルサレムより死海・ヨルダン、ヘルモン、カルメル山などの聖地視察の機会を与えられました。今日でもなおかつ、古今を通じて真理の体験を得る機会や、その昔、主キリストの御宣教になった跡を偲ばしめられ、一層われわれの十字架の意義や、主キリストの御経過の動きを感受せしめられたのであります。これは全く私に対して、聖書の精読とあわせて賜わった御恩寵にほかならぬものであります。
このように、私は青年時代より引き続き聖書の研読を重ねてまいりましたので、いわゆる「論語読みの論語知らず」のそしりを免れるかも知れませんが、日本的にのわが国のキリスト教は、もっぱら英米仏を通じて伝えられた関係から、伝統的な小乗的救済観や、純福音による大乗的贖罪観などにおかれ、加えて聖書の道徳観念の相違という点にも影響を散らし人より遠ざけ、全く軽視されているかのように感ぜられたのであります。そこで、先生私の還暦に際しましては、今更ながら、自分が今日まで成立しました造物主よりの厚き御恩寵に考えを及ぼし、感謝に満たされました以上に、過去数十年間にわたる悲痛交々の体験や種々の見聞を通じて、それから来た思想の造物主のきびしい心情の法則の存在を一層確認せしめられたのであります。
しかしながら、私たち個人が今更これを悟っても、既に一切が過去の人となり、何をしようとしても、もはや手遅れの感をしみじみと味わされるのであります。それで、今せめて、将来に多くの希望や発奮の機会を十分に持つである青年諸君に対し、すこしでも早く、これについての正しい御説明申し上げ、皆様が熱心なる信仰に加えて、更に一段と積極的な行為の努力万全に達進せられて、その結果報いられて絶度のある幸福な晩年を享有せられるば、造物主の御恵び(コロサイ書一章十一節)まさらに及ばばや、小さな一個人のり、大は国家の興隆と子孫の□栄とに寄与することながら、なおわれその愚と不文とを悔しながら、真心をかれなして、この小著を、あえて世に出さしめる事は、年を追って□兄姉に捧げる決第であります。
昭和二十一年十一月
著 者
江藤栄吉郎(Eikichiro Etoh)
『聖書の教える因果応報』著者:江藤栄吉郎(1887-1956年)、兵庫、1940年(昭和15年)発行。1885年(明治18年)栄吉郎が10歳の時に、父の江藤清助と母シメと共にアメリカ長老教会のT.T.アレクサンダーよりバプテスマを受けました。1891年(明治24年)に、家族で大阪南一致教会を脱退し、プリマス・ブレザレン派のH.G.ブランドらから聖書を学びました。石原久之助、堀 米吉、上田貞次郎たちと大阪同信会として聖書を学び、伝道活動を行いました。本書は、80歳まで毎朝、妻と共に聖書通読を続けてきた栄吉郎が人生を振り返り、「因果応報」として、聖句と実例から、聖書の教え通りに生きるよう勧める構成になっています。「何故聖書を読まなければならぬか?」の見出しでは、聖書を新調し、読み始めと読み終わりの日付を巻頭に記録し、読み終えた章は朱色で点を付けていくという習慣に触れています。読み終えた聖書は、「愛する者に贈与する」と述べています。受け継いだ聖書には、1934年(昭和9年)2月14日に創世記を読み始め、1937年(昭和12年)5月9日に黙示録を読み終えたことが記されています。また「因果応報」という見出しの下に、申命記5:9、列王第一21:28というように根拠となる複数の聖句を列挙しています。
栄吉郎は、1900年(明治30年)大阪淀屋橋の南詰に貴金属などを扱う「尚美堂」を創業しました。1922年(大正11年)に、江藤株式会社を設立し、「萬古(VANCO)ペンシル」を生産販売し、6人の息子をキリスト教徒として育てました。栄吉郎は、大阪YMCAの理事として善積武太郎と共に活動しました。善積君惠(大阪YWCAの理事)は、日本メソジスト教会の牧師の相原英賢の長女だったが、聖書をもっと正確に知りたいと願っていました。

江藤栄吉郎57歳の時の写真 1933.3.21(昭和8年)

江藤栄吉郎の6人の息子(左から江藤順蔵、江藤喜一、江藤和夫、江藤悦三、江藤賢三、江藤善七郎)1934.4.1(昭和9年)
江藤書店
1885年(明治18年)江藤義資が経営する江藤書店(東京京橋区三十間堀二丁目一番地)は、米国聖書会社の支店(特約店)になっていたようです。またプレスビテリアン(長老派教会)、リホームド教会(改革派教会)代理店となっていました。1888年(明治21年)から1889年(明治22年)まで、小崎弘道や本多庸一などの聖書の説明を掲載している「反響:説教演説集」を12巻発行していますが、販売所として江藤清助、十字屋、福音社などが協力しています。
参考資料:国立国会図書館「反響:説教演説集」
江藤清助略伝
江藤 悦三
はじめに
これは現代流行のルーツではない。明治の前半イエスの福音を信じた一大阪商人の人生記録である。彼は私の祖父にあたる。しかし八十四年前に死んだこの人に私は永い間、関心を持たなかった。ところが、彼の生き方の一端が最近判ってきたことと昨年の暮の甥基雄の突然の死とが、私に拙ない筆を執らせるように追いやった。調査の時間不足のため不完全を免かれ得ないが、他日の補完を期して、ここにひとまず発表する。
一九七七年盛夏
第一章 前半生
江藤清助は一八三九年、天保十年八月十五日、若狭国(わかさのくに)十村、現在の福井県三方郡三方町に、江藤清左衛門の二男として生まれた。当時わが国では鎖国下の幕藩体制が行き詰まり、若狭で天明から天保期にかけて、生活に苦しむ農民の一揆が頻発していた(山川出版社『福井県の歴史』)。清助は七歳の時、大阪の船場で呉服商を営んでいた父の弟、若狭屋の養子になった。これには当時の実家の苦しい経済が関連していたかも知れない。若狭屋には清助より一歳年長の姉が一人あったようである。彼が養子になったのち、恐らく数年以内に、へんねし子として義弟の義資(よしすけ)が生まれたと思われる(へんねし子とは、子供のできない夫婦が養子を貰ったあと、まるでやきもちを如くように生まれてくる実子のことである)。
さて清助十六歳の時、一八五四年は、わが国がアメリカのペリーの強圧に屈して開国した年に当る。さらに四年後には幕府は朝廷や諸藩の反対を抑えて日米修好通商条約に調印、反対するものには厳罰を科し、その結果は井伊大老の暗殺を引き起こした。一八六〇年、清助二十二歳の頃である。これらのちの明治維新の成るまでの八年間は、わが国の歴史、いまだかつてない内憂外患の時代であって、日本経済の中枢であった大阪はもちろん、その渦中に巻きこまれた。青年期の清助は家業に励みながらも、その若い血潮をたぎらせたことと察せられる。その間養父は慶応元年、一八六五年死亡し、清助は二十七歳で名実共に若狭屋を継いだであろう。
明治三年備江シメと結婚。清助三十二歳、シメ二十歳であった。その後の約一〇年間は、清助にとって義弟義資の問題があったとはいえ、生涯の中で最も平穏無事の時期であったと思われる。国全体としては旧武士階級の反抗は結局抑えられ、日本の近代化は着々と進行し、大阪はいよいよ経済の都として繁栄していく。若狭屋も順調に発展したと思われる。彼に子供にも恵まれ、長女モト(明治四年)、長男清次郎(同六年?)、二男栄吉郎(同一〇年)、三男喜吉(同二四年)、四男治吉(同一九年)が次々と生まれた。ただその間、実兄が明治一一年死亡している。
第二章 苦難と入信の時代
清助にとっては、長女モトに続き、若狭の実父清左衛門が明治一四年相次いで死亡したことは、彼の平和の時代の終りを意味したようにみえる。明治一〇年の西南戦後インフレーションが起った。これを克服するために松方蔵相の緊縮政策が行なわれ、中小企業は特に苦しい立場に立たされた。清助の家業の方も恐らく苦しくなった事であろう。
いっぽう明治一〇年頃よりアメリカ宣教師達による日本伝道が熱烈に行なわれていたが、折しも不平等条約の改訂を望んで行なわれた、いわゆる「鹿鳴館」の欧化政策は、キリスト教発展にも一層有利に働いたに違いない。当時横浜にあって聖書の発行に従事していた義弟義資より聖書を贈られた清助は、明治一八年頃より大阪南教会の前身「清水町説教所」で信仰を学び、アレクサンダー宣教師より受洗して、既に会員となっていた。一八八二年十二月十八日、同説教所が南一致教会として独立したさい、清助は初代執筆の一人に選ばれた。またシメ、栄吉郎、嘉吉も、同二十三日受洗。一家を挙げて信仰の生活に入った。清助は以後四年間、ひきつづき執筆に選ばれ、創立二代目の同教会財政の担当者として、会堂改築と牧師謝金(当月二十円)の自給実現のために努力したと思われる(「五十年史」八、九ページ、教職及び役員年表、略史、四ページ)。しかし第二の不幸は翌一九年にやってきた。長男清次郎の病死である。清次郎は当時京都市に下宿して、新島襄の同志社で勉学中であった。清助も彼に期待する所があったに違いない。清助の辛さが察せられる。また清助が、呉服商はキリスト教徒の生業に適わしくないと考え、ミシン輸入業に転業したのも多分この頃の事と思われる。
さて明治二十年大阪に「稲荷(いなり)焼け」、別称「難波神社の大火」が起った。船場の中心部は島(うつ)之内(うち)町に帰し、博労町四丁目の清助の家も土蔵一つを残して焼け落ちた。彼は直ちにバラック建てを急増して再建に取りかかり、さらに商売を変えて、メリヤス製造業を開始した(「胡蝶」六ページ)。この事は清助の商人としての気魄を感じさせるが、いっぽう、商売再建のかたわら焼け残った土蔵の前で、道行く人に神の愛を説き、福音を語った。世人は彼が気違いになったのではないかと噂したと言う。長男の死も火災も、清助の信仰を却って純粋に、より深くしたのである。
第三章 プリマス派転会と死
明治二十二年南教会の初代長老竹内耕吉氏の突然の死と、長老守塚誠哉氏の北教会への転会により、長老二名の補欠選挙が行なわれた。清助は前回前川潤氏と共に当選したが、両氏共にこれを受けず、再選の結果、高橋要助氏が選ばれた(「略史」六ページ)。清助は同以後も会堂建築予備委員として、また翌年以後は牧師招聘委員を兼ねて、活動はしているものの(「略史」七、九ページ)、教会創立以来四年間、執事として活動し来った清助が、今教会が最も彼を必要としたその時期に、長老を辞退し、執事を引受けていない事は、家業の心配もあったとは言え、燃えるような彼の伝道精神と思いくらべる時、奇異の感をうけざるを得ない。これは長男の死と火災の後、清助の心の中に何か新しい考えが生まれつつあったのではないか。それとも既に健康が蝕ばまれていたのか。
さて「先輩兄弟・明治篇」三九ページ、明治二十四年の5「江藤清助兄」の項に次のような文章がある。「或る日、石原(久之助、筆者)兄が御堂筋の吉川湯に行かれた時、一致教会に属する江藤清助兄と出会われた。その際石原兄は、この頃聖書に由って救いの道を頗る明瞭(すこぶるめいりょう)に教えてくれる人が来て居られるが、一度お宅で集りを開きたいと思いますが、お宅を拝借できませんか、と問うた。江藤兄は、それはよい易(やす)い事です、と承諾せられた。そこで一日江藤兄方に集まられた。その時の出席者の中に堀米吉児、小西角兵衛兄等が居った。その後、石原兄方に屡々(しばしば)集められた堀児は、初め反対していたが、遂に心磁かれた。以上の兄弟方、南一致教会を離れて主の御名にのみ集めらるるに至った。」ここに記されている石原久之助兄とは、当時の島之内教会の中心的な会員であったが、乗松雅休(のりまつまさやす)氏の説くプリマス派の福音主義に共鳴し、同教会員一五名と共にこの年の五月末、大挙脱会したばかりの人であった(「先輩」三八ページ)。
また堀米吉児、小西角兵衛兄等は、南教会において同年四月、長老に選挙されたばかりの役員であった(「略史」一〇ページ)。また、文中の「聖書に由て救いの道を頗る明瞭に教えてくれる人」とは、当時大阪滞在中の乗松雅休氏に間違いあるまい(「先輩」三七ページ)。このことは、諸記録を併せ考えてみれば、明治二十二、三年来、東京の日本橋教会で始まったプリマス派の旋風が東京の諸教会に拡がり、二十四年には大阪に波及して、先ず島之内教会、ついで南教会そのの他に及んだ史実の一環を示していることが判る。右の石原氏の清助への依頼もその大きな流れの一こまに当ることになる。
プリマス派の福音主義を信じた清助は、小西氏と共に同年年末南教会を脱会してプリマス派に移ったと思われる(「先輩」四九ページ)。この転会を清助個人の側から言えば、石原氏の申し出を「それはよい易い事です」と気軽に引き受けた心の中には、前述から新しい考え、いわばイエスの真理へより近づきたいとの願いが、既に存在していたのではないだろうか。
実父と長女の死、入信と信仰活動、転業、長男の死、火災、そしてプリマス派への転向とそれに伴って起ったであろうトラブル(「五十年史」三二ページ)。これらの他にもう一つ、清助の気がかりであったのは、二男栄吉郎の教育であったらしい。後年その才を縦横に発揮して、大阪実業界にその名を馳せるに到った栄吉郎も、少年時代は、その負けじ魂のゆえであろうか四年制の尋常小学校さえ卒業しない学校嫌いであった。しかし長男の清次郎と異なり、栄吉郎の商人向きの性格を認めた清助は、彼に商人としてのきびしい訓練を行なった。そして時計屋(つちや)になりたいとの栄吉郎の志を知って、同信の堀米吉児氏の経営する心斎橋筋の時計店へ丁稚にお願いしたらしい。栄吉郎十三歳の頃(明治二十三年)であろう。堀米商店に入った栄吉郎は、水を得た魚のように以後、商人の道をまっしぐらに進み、父清助の信頼を得るようになったと思われる。
清助は上述のような種々の心労が重なったためであろうか、結核の冒す所となり、明治二十六年年初より床に臥すようになったらしい。日本のプリマス派創建者とも言うべきブランド氏が、初めて大阪入りをした同年一月二十二日、梅田駅に出迎えた同派の信徒達の名前の中に清助の名が見えないのは、恐らく既に病状がかなり悪化していたためであろう(「先輩」六六ページ)。二月二十五日、堀米商店より栄吉郎を呼び寄せた清助は、シメおよび三人の息子に囲まれ、身を起きせ、鏡で自分の顔を眺めて死期の近づいた事を認め、苦しい息の中から辞世の首をゆっくり口ずさんで書きとらせた。その声は僅かに聞きとれるほど弱かったけれど、その内容は、数々の人生の苦労にもめげず、なすべき事はなし終えて、今や天国の門の前にたどりついたその人のゆるがぬ信仰の告白であった。その一首はすなわちこれである。
天国もようようここに近づきて
もはや憂いもなきぞうれしき(墓碑による)
この妻子への最後の言を伝え、みずから確めるように二、三回口ずさんでから静かに眠りに入った清助は、二月の二十二日永眠した。数え年五十五歳であった(「胡蝶」二ページ)。遺骸は多分阿倍野の墓地に葬られたのであろう。現在そこの江藤家の墓地には、妻シメが死去した翌年(昭和三年)長男栄吉郎によって建てられた清助、シメ合祀の墓碑があって、とその背面に、右の一首が刻まれている。それにしても、四十三歳の妻と、十六歳を頭とする三人の息子達を残して、早くも旅立たねばならなかった清助の心中はどんなであったろうか。
清助が遺族に残した遺産については明白でないが、七年後、栄吉郎が独立して尚美堂を開業した当初の資金が九三〇〇円であったことから判断すると、それはおよそ五、六千円ではないかと思われる。当時の五、六千円という金額は、同じ年に南教会が南綿屋町で家屋づき百五十七坪の土地を二千七百八十八円五十銭で買入れている事と考え合わせると(「五十年史」二四ページ)、決して小さな金額ではなかったことが判る。明治十八年以後の不遇つづきのあとだけに清助の精励ぶりが偲ばれよう。
第四章 エピソードその他
江藤清助については公やけに記録されたものは現在のところ、後述するように僅かしか見出せない。しかも八十四年も前に死亡して既に戸籍からも除籍されている程に古い人であるから、彼に接した同時代人はほとんど居ない。ただ既に故人となったシメや、栄吉郎、その他の人々の口を通じて伝えられたエピソードがいくつか記憶されていて、清助の人柄を知る材料にはなる。しかしその伝聞がいつ、どのようにして聞き取られたものかが、明白でない上に、同じ事柄と思われるものでも、互いに矛盾している場合があるので信憑(しんぴょう)性に欠ける点は否み得ない。また清助にとってあるいは不名誉でないと思われる事も正確を期する為についでに記しておく。
(一)江藤嘉祐氏(嘉吉の三男)宅の過去帳によれば、清助には豊吉(戒名・釈浄雲童子)と云う男の子があり、慶応三年九月十三日に死亡している。清助二十八歳の時である。これはシメと結婚する四年前当る。この事は今の処、これ以上は判らない。
(二)四男治吉についても戸籍上は五男となっていたが本書では四男としておいた。なぜ五男となっているかという理由も同様、今は判らない。
(三)清助がキリスト教に関する話を聴いている時、妻のシメに「こんなぼろい話は聞いた事がない」と語ったという。「ぼろい」とは大阪弁で非常に得だという商業用語である。これが清水町説教所で初めて説教を聞いた時の事か(本書六ページ)、それとも、のちに「律法主義より救い出され、恩恵の自由を」を主張したプリマス派に接した時の事か(本書二一ページ)、定かでないが、何れにしても五十歳前後の清助が、未だみずみずしい道徳的感覚を失なっていなかった事実を示す重要な一言といえよう。
(四)清助が義父より引継いだ家業の呉服商を廃して、ミシン輸入商に転業した理由として、呉服屋仲間のつき合いには飲酒がつきものだから、当時の教会のきびしい禁酒のしきてりに従ううちにそうしたという伝聞がある。いっぽう呉服屋というのは、婦人の虚栄心と贅沢をそそる悪い商売だから転業したという別の伝聞がある。いずれにしても、古い今までの世界から脱出しなければならないと考えたのであろう。
(五)ミシン輸入業、さらにメリヤス製造業に転じたのは、恐らく教会関係の伝(つて)があったから出来た事だろうが、それにしても、思い切りの良い、そしてハイカラな事であった。なお明石のプリマス派の石田庄三郎(栄吉郎の妻いわの父)も、入信後、家業の酒造業を廃し、明治二十七年には既に製糸業に転じた(「先輩」八三ページ)。これによっても当時のキリスト教徒の職業選択のきびしさの一端がうかがわれる。
(六)栄吉郎の教育についてのエピソードの伝聞を列記すると、①夜、路傍にむしろを敷いて、物を並べて売る事を夜店を出すというが、十一、二歳のころ栄吉郎はそれをやらされ、つらい思いをしたという。しかも、その栄吉郎を清助は物の陰から監視したという。清助にとっては、これも息子の教育であり、かつ商売でもあったのだろう。売った品物はメリヤスの自家製造のさい出来たきず物だったらしい(「胡蝶」四二ページ)。
②ある日、清助は栄吉郎をつれて紙問屋へ行き、問屋が小売屋に売るさい、丁寧に一枚ずつ数える現場を見せた。問屋は数え終ると、一枚多くございましたという様子で必ず最後の一枚を取った。これで買う側を心理的に安心させ、みずからも一枚得をするのである。こうして商売のこつを栄吉郎に教え込んだのだ。信仰の人、清助はまた、たしかな商売の人であった。
③少年栄吉郎が鳥打帽子(ハンティング)をほしがった時、清助が買ってやらなかった事があった。栄吉郎は腹を立てて「部屋中の畳の上に、つばを吐き散らした」と後年筆者に洩らした事がある。清助のきびしい一面である。
(七)「義弟義資の問題」とは、義資がいわゆる極道者で、清助からしばしば金をせびって苦しめた事をいう。養子であった清助は、実子である義資にはやはりきびしく出来なかったのかも知れない。結局、義資は家を飛出してしまい、東京方面に行って、夜、泥酔して、とあるキリスト教会の前で寝ているところを助けられた。それが機縁になってか、翻然(ほんぜん)、信者となり、みずから聖書の発行業を営む程になった。そして、かつては極道で苦しめた義兄の清助に贈った一冊の聖書が、今度は一家に救いをもたらす事になった。誠に奇縁という他はない。
(八)明治十八年、清助の家族三人の受洗が行われているが、翌十九年死亡した心肝の長男清次郎の名前がここに見えないのは不思議である。彼は既に同志社で受洗を終っていたのではあるまいか。
(九)明治二十四年清助が南教会を脱会してプリマス派に転じた時、既に堀米商店に勤務していた十四歳の栄吉郎は脱会に反対したという。その理由としては、主人の堀米氏が初めの中(ちゅう)、脱会を躊躇した事、栄吉郎にとって六年余の信仰の交わりを断つことのつらさ、父清助の心境が若年の栄吉郎にはまだ理解できなかった事等が考えられる。しかしその後、あまり遠くない時期に栄吉郎もプリマス派に参加したと思われる。とにかく、清助の転会はその一家の中にも一つの波紋を生じていたのである。栄吉郎はその後も永く南教会とは親しい交わりを続けていたらしい。
(十)戸籍によれば清助の遺族は、清助の死後間もなく博労町四丁目から南屋敷町へ移転している。その理由は判らない。
(十一)最後に清助の肖像に触れておく。現在江藤蔵成(栄吉郎長男)宅には、蔭山条之助氏が明治四十年頃、或る写真を元にして実物大にスケッチされたと思われるものと、それを更に長尾己氏が模写された油絵一枚とが残っている。いっぽう同じスケッチから模写されたと推定される別の油絵一枚(作者不詳)が江藤嘉祐氏宅にある。これら三枚の肖像画の他に、南教会五十年史に掲載されている、やや傷んだ写真が一枚あるが、その元の写真はない由である。本書口絵の二枚の写真は右のスケッチと五十年史の写真の複写である。以上が現在の処、筆者の入手できた清助の肖像のすべてである。書については残念ながら全く手に入らない。(写真略)
おわりに
この略伝をまとめるに当って、主に使用した資料は左記の四種である。
一、大阪南教会五十年史、一九三五年同教会発行。本文では「五十年史」と略して引用した。
二、大阪南教会略史、一八九六年同教会発行。本文では「略史」とした。
三、先輩兄弟・明治篇、一九七六年同信社発行。本文では「先輩」と略した。
四、胡蝶、一九四二年江藤嘉吉発行。本文では「胡蝶」と記した。
右の南教会の資料は同教会長秋山牧師の特別のご好意により貸与を許されたもので深く感謝申し上げたい。この他、貴重な伝聞を教えて下さったり、資料調査にご協力下さった南教会の竜口氏、同じく倉橋氏ご一家、福井県三方町教育委員会の金森氏、同信社の鈴木氏、そして親族の諸氏と家族に心より感謝を申上げる。
一九七七年八月十五日
筆 者
(昭53・3・4)
手書きの原稿:
