第3章「プロテスタント」

  1. 14世紀から19世紀までの略史
  2. 聖書の解放と宗教改革
    1. ジョン・ウィクリフ(1320頃-1384)
    2. ヤン・フス(1369頃-1415)
    3. ヨハネス・グーテンベルク(1400頃-1468)
    4. デジデリウス・エラスムス(1466-1536)
    5. マルティン・ルター(1483-1546)
    6. 「聖書のみ」の原則
    7. フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)
    8. ウィリアム・ティンダル(1494頃-1536)
    9. ジャン・カルヴァン(1509-1564)
    10. ジョン・ノックス(1514頃-1572)
  3. 原始キリスト教の精神の探求
    1. ミシェル・セルヴェ(1511-1553)
    2. フェレンツ・ダーヴィド(1510-1579)
      1. ユニット・ユニット派とは何か
      2. 「神は一つ」の宣言
      3. 1568年:トルダの勅令
      4. キリストの従属性と人間性
      5. 聖霊の理解
      6. 「非礼拝主義(ノン・アドラント主義)」
    3. ファウスト・ソッツィーニ(1539-1604)
    4. 『ラコビア綱領』
      1. 神の御名の定義と「エホバ」の固有性
      2. 「エホバ」が単一の位格(父)のみを指すという論証
      3. キリストが「エホバ」ではないことの明示的否定
      4. 申命記 6:4(シェマ)の解釈における「エホバ」
  4. カトリック教会の反撃と抑圧
    1. 教会の権威と伝統の再定義
    2. 禁書目録と検閲
    3. 異端審問と物理的な弾圧
    4. イエズス会の創設と教育による対抗
    5. 三位一体論の教条的再確認
  5. 原始キリスト教の精神の回復
    1. ジェームズ1世(1566-1625)とジェームズ欽定訳(KJV)
    2. ジョン・ミルトン(1608-1674)
    3. アイザック・ニュートン(1642-1727)
    4. ニュートンが指摘した「聖書の改竄」
    5. ボルテール(1694-1778)
    6. ジョセフ・プリーストリー(1733-1804)
  6. アメリカにおける原始キリスト教復興運動(レストレーション・ムーブメント)
    1. 文献引用

14世紀から19世紀までの略史

14世紀から19世紀までの略史
  • 1382年
    イングランドのジョン・ウィクリフが初の英訳聖書を発刊
  • 1415年
    ボヘミアのヤン・フスは聖書を支持したためローマ教会により処刑
  • 1455年
    ヨハネス・グーテンベルクがラテン語ウルガタ訳の活版印刷を完成
  • 1517年
    ドイツのマルティン・ルターによる宗教改革
  • 1519年
    スイスのフルドリッヒ・ツヴィングリの宗教改革
  • 1525年
    ウィリアム・ティンダルが「新約聖書」を完成
  • 1533年
    『七つの書物における三位一体説の誤謬』の著者ミシェル・セルヴェの処刑
  • 1568年
    フェレンツ・ダーヴィッドによるトルダの勅令
  • 1560年
    スコットランドのジョン・ノックスの宗教改革
  • 1605
    ソッツィーニ派による「ラコビア綱領」の出版
  • 1611
    ジェームズ欽定訳(KJV)が完成

  • 1674
    ジョン・ミルトンの「キリスト教教理について」
  • 1754
    アイザック・ニュートンの「二つの顕著な聖句の改竄の歴史的記述」
  • 1782
    ジョセフ・プリーストリーの「キリスト教の腐敗の歴史」
  • 1832
    アメリカの原始キリスト教復興運動

聖書の解放と宗教改革

ジョン・ウィクリフ(1320頃-1384)

 14世紀のイギリスにおいて、オックスフォード大学の教授であったジョン・ウィクリフ(1320頃-1384)は、教会の腐敗を批判し、「聖書こそが信仰の唯一の規範である」と主張しました。当時、聖書はラテン語(ウルガタ訳)に限られ、一般の民衆が読むことは固く禁じられていました。

 ウィクリフは、民衆が直接神の言葉に触れるべきだと考え、ラテン語から英語への聖書翻訳を指揮しました。これに対し、カトリック教会は彼の死後、1415年のコンスタンツ公会議において彼を異端と宣告し、墓から遺体を取り出して焼き、川に捨てるという苛烈な対応を取りました。ウィクリフは、教皇の権威よりも聖書の言葉を上位に置きました。彼は、当時の教会が教える儀式や教義の多くが聖書に根拠のない「人間の伝統」であると見抜いていました。

 「聖書は、キリストの律法の全体を含んでいる」(テモテ第二 3:16-17)。彼は、聖書さえあれば救いのために十分であると考えました。

ヤン・フス(1369頃-1415)

 ウィクリフの思想はボヘミア(現在のチェコ)のヤン・フス(1369頃-1415)に受け継がれました。フスはプラハ大学の総長であり、民衆の言葉で説教を行いました。彼は「聖書に反する教皇の命令には従うべきではない」と説き、教会の権威を揺るがせました。

「真理は勝つ」

 1415年、フスは安全を保障されてコンスタンツ公会議に呼び出されましたが、裏切られて火刑に処されました。彼の死は後の宗教改革の火種となり、「真理は勝つ」という彼の言葉は原始キリスト教を求める人々の合言葉となりました。「真理を求めよ、真理を聴け、真理を学べ……真理は汝を自由にする」(ヨハネ 8:32)。フスはこの聖句を信念とし、死の間際まで自身の主張を撤回しませんでした。

ヨハネス・グーテンベルク(1400頃-1468)

 15世紀半ば、ヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷術の発明(1450年頃)は、人類の歴史を決定的に変えました。それまで手書きで高価だった聖書が、大量かつ安価に供給されるようになったのです。

 ヒエロニムスは、382年に教皇ダマスス1世の命により、ローマ教会で使用されたヴェトゥス・ラティナ福音書の改訂を命じられました。後にヒエロニムスは信頼できる写本を使い、改訂と翻訳の作業を行いました。グーテンベルクは、活版印刷として当時カトリックが公認していたラテン語ウルガタ訳として知られる複数の写本を突き合わせて校訂された版を採用しました。これにより、教会が独占していた「解釈の権威」が崩れ始めました。個人が自宅で聖書を読み、教会の教え(三位一体論など)が本当に聖書に書かれているかどうかを確認できる環境が整いました。

デジデリウス・エラスムス(1466-1536)

人文主義者のデジデリウス・エラスムスは、1516年に初のギリシャ語新約聖書を出版しました。彼は三位一体論の根拠とされていた「ヨハネのコンマ(ヨハネ第一 5:7)」が古い写本にないことを指摘し、後の反三位一体論者に文献学的武器を与えました。

マルティン・ルター(1483-1546)

 1517年、マルティン・ルター(1483-1546)による「95か条の論題」の提示から宗教改革が本格化します。ルターの最大の功績の一つは、聖書をドイツ語に翻訳し、一般市民に届けたことです。

 ルター自身は三位一体論を保持していましたが、彼が提唱した「万民司祭(すべての信者は祭司である)」という概念は、後のセルヴェやソッツィーニのような「聖書を自分の目で読み、独自の結論を出す」人々を必然的に生み出すこととなりました。「義人は信仰によって生きる」(ローマ 1:17)。ルターはこの聖句を再発見し、教会の儀式よりも聖書の言葉への個人的な信頼を強調しました。

「聖書のみ」の原則

「聖書のみ(Sola Scriptura)」

16世紀の宗教改革は、「聖書のみ(Sola Scriptura)」という原則を掲げ、カトリック教会の伝統や教皇の権威よりも、聖書の記述を至上として尊重することから始まりました。この動きの中で、一部の思想家たちは、教会の伝統的な教義である「三位一体論」さえも、聖書に直接的な根拠を持たない「後世の捏造」ではないかと疑い始めました。

  彼らが目指したのは、4世紀のニカイア公会議以前の、いわゆる「原始キリスト教」の純粋な姿でした。そこには、父なる神の絶対的な唯一性を信じ、イエス・キリストを神そのものではなく、神に従順な子、あるいは神に選ばれた人間として捉える、かつてのアリウス派に近い思想が息づいていました。

フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)

 スイスの改革者フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)は、厳格な聖書主義を貫きました。彼は三位一体論そのものを否定したわけではありませんが、彼の「聖書に書かれていない儀式や教義は廃止すべきである」という態度は、後の反三位一体論者たちに大きな示唆を与えました。

 ツヴィングリは、キリストの臨在を象徴的に捉え、カトリックのミサにおける化身説を否定しました。この「理性的・論理的な聖書解釈」という態度は、キリスト教をギリシャ哲学的な形而上学から解放し、聖書の言葉そのものに立ち返らせる道筋をつけました。この精神は、後に「神は唯一であり、イエスは神と等しくはない」と主張するグループに、方法論的な武器を与えることとなりました。

ウィリアム・ティンダル(1494頃-1536)

 16世紀初頭、イギリスのウィリアム・ティンダル(1494頃-1536)は、ラテン語訳からではなく、ギリシャ語とヘブライ語の原典から直接英語に翻訳するという偉業を成し遂げました。

 カトリック教会は、ティンダルの翻訳が教会の用語(「教会」を「集まり」、「司祭」を「長老」とするなど)を変えたことを激しく非難し、彼を処刑しました。しかし、彼の正確な翻訳は、後に三位一体論の根拠とされる聖句を文献学的に再検討する際の重要な土台となりました。

 ティンダルは、英語訳聖書の歴史において、神の固有の名を英語で表記した先駆者です。彼は1530年に出版されたモーセ五書(Pentateuch)の翻訳において、ヘブライ語の「YHWH」を「Iehovah(エホバ)」として翻字しました。

“And I appeared vnto Abraham / Isaac and Iacob an allmightie God: but in my name Iehovah was I not knowne vnto them.” –Exodus 6:3

「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、エホバ(Iehovah)という名では、彼らに自分を知らせなかった」(出エジプト 6:3)

“Iehovah is goddes name / nether is any creature so called. And it sygnifieth after the hebrues / the beinge of god of hym selfe / and with oute begynnynge or endinge. Finallye / where so ever thou findest JEHOVAH in greate letters (excepte there be anye erroure in the pryntinge) yt is in hebru / Iehovah / a name vnusuall vnto the hebrues / which put Adonai in the stede thereof / when so ever they rede it.”

「エホバ(Iehovah)は神のお名前であり、いかなる被造物もそのように呼ばれることはありません。この名は、神の存在(being)とそのあり方(estate)を意味しています。すなわち、神は『言葉と約束の神』であり、ご自分が命じたことのすべてを成し遂げられる方であることを示しているのです。また、この名は『存在する(to be)』という意味の動詞に由来しています。」

[Tyndale’s Old Testament (1530)参照]

 このようにティンダルは、出エジプト記6章3節の注釈において、「Iehovah(JEHOVAH,エホバ)」が神の固有の名であることを説明し、単なる称号との違いを明確にしました。ウィリアム・ティンダルは聖書本文で「Iehovah」と記し、注釈(用語解説)で大文字の「JEHOVAH」を用いたことには、単なる綴りの揺れ以上の、非常に重要な「翻訳上の視覚的ルール(体裁)」を確立しようとする意図がありました。

 ヘブライ語原典において、神の固有の名は四文字(YHWH)で記されています。ティンダルは、この「固有の名」が、他の一般的な称号(「主」を意味するアドナイや、「神」を意味するエロヒム)とは本質的に異なるものであることを読者に視覚的に伝えたかったのです。

 本文で「Iehovah」という固有名詞として綴りつつ、注釈で「大文字(greate letters)」に言及したのは、「この箇所には原典で聖なる四文字(テトラグラマトン)がある」という事実を際立たせるためです。彼は注釈の中で「大文字のJEHOVAHを見つけたなら、それはヘブライ語でもIehovah(テトラグラマトン)である」と明記しています。

 当時、カトリック教会のラテン語訳(ウルガタ訳)では、テトラグラマトンも「Dominus(主)」と訳されていました。これでは、単なる「主人」を指す称号なのか、唯一の神の「固有の名前」なのかが判別できません。

 ティンダルは、神を「Lord(主)」という称号で呼ぶ場合と、「JEHOVAH(エホバ)」という固有名で呼ぶ場合を明確に分けるルールを作りました。大文字表記のルールを提唱することで、読者が「ここは神の固有のプライベートな名前が呼ばれている特別な聖句だ」と認識できるようにしたのです。

 ティンダルが注釈で「大文字(greate letters)」にこだわったのは、聖書のテキストの中に神の固有の署名を残すための革新的なエディトリアル(編集)手法だったと言えます。「主の言葉は純粋な言葉である。土の炉で七度練り清められた銀のようである」(詩篇 12:6)。ティンダルは、人為的な教義によって汚されていない純粋な聖書の言葉を民衆に与えようとしました。

ジャン・カルヴァン(1509-1564)

 ジュネーブの改革者ジャン・カルヴァンは、『キリスト教綱要』を著し、組織神学を確立しました。三位一体論を厳格に擁護したため、反三位一体論を唱えたセルヴェと激しく対立し、彼を処刑に追い込みました。

ジョン・ノックス(1514頃-1572)

 スコットランドの改革者でカルヴァンの弟子であり、スコットランドにおける長老派教会の創設者のジョン・ノックスは三位一体論者でしたが、カトリック教会の儀式や教義を「偶像崇拝」として激しく攻撃し、聖書に直接の根拠がない教会の伝統を徹底的に排除しようとする「原始的純粋性」への強い意志を示しました。(ヨハネ 4:24)「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」

原始キリスト教の精神の探求

ミシェル・セルヴェ(1511-1553)

 三位一体論の誤りを最も過激に、かつ学術的に指摘したのが、スペインの神学者であったミシェル・セルヴェ(ミカエル・セルベトゥス)です。フランスにある記念碑文によると「地理学者,医師,生理学者。科学上の発見、病人や貧しい人々への献身的援助、他に支配されない不屈の知性と良心により、人類の福祉に貢献しました。」と紹介されています。

 セルヴェは、1531年に『三位一体の誤謬について(De Trinitatis Erroribus)』を著し、キリスト教界に衝撃を与えました。「聖書には三位一体について述べられていない。……我々が神を知るようになるのは,尊大な哲学的概念を通してではなく,キリストを通してである」と書き、聖書のどこにも「三位一体(Trinitas)」という言葉も、その概念を説明する「本質(Substantia)」や「位格(Persona)」といった哲学的用語も存在しないことを指摘しました。

 セルヴェは、イエス自身が「父は私よりも偉大である」(ヨハネ 14:28)と述べていることや、「独りの神、父」(コリント第一 8:6)という表現を重視しました。彼は、イエスが神の息子であることを認めつつも、それは神と本質を等しくする存在ではなく、神の霊が宿った人間、あるいは神のロゴスが形をとったものであると考えました。

 神の固有の名「エホバ(Jehovah)」について詳細に論じました。「最も聖なるもう一つの名,יהוהは,……次のように解釈できる。……『彼はならせる』,『生み出す者』,『存在の原因』」と述べています。彼は、神を三つの位格に分けることは、この唯一無二の名前の尊厳を損なうものであると主張しました。セルヴェは、聖書において「エホバ」という名が適用されるのは、至高の父なる神お一人だけであり、イエスは「エホバの御子」であると定義することで、父と子の本質的区別を論証しました。「その名はエホバという、唯一、全地を治める至高者であることを、彼らに知らせてください」(詩篇 83:18)。

 彼は、三位一体論がキリスト教を多神教化させ、ユダヤ教徒やイスラム教徒にとっての躓きとなっていると批判しました。彼はカトリックとプロテスタント双方についてこう述べました。「わたしはどちらの側とも,すべての点で同意するわけでも同意しないわけでもない。どの教会も多少の真理と誤りを有しているように思えるからである。しかし,だれもが相手の誤りには気づき,自らの誤りは認めない」。

 しかし、こうした主張はカトリックのみならず、ジャン・カルヴァンらプロテスタント主流派からも激しく敵視されることになりました。最終的に彼は1553年10月27日、スイスのジュネーブで火刑に処されました。彼の殉教は、良心の自由と反三位一体論の象徴として、後のソッツィーニ派へと引き継がれていきます。

フェレンツ・ダーヴィド(1510-1579)

 トランシルヴァニア(ハンガリー)の改革者であるフェレンツ・ダーヴィッドは、ユニット・ユニット派(一単位説)の創始者。彼は「神は一人である」という純粋な一神教を説き、1568年に「トルダの勅令」によって信教の自由を認めさせました。彼はイエスを神として礼拝することを拒否し、「唯一の神、エホバ」のみを礼拝の対象とすべきだと主張しました。(マルコ 12:29)「主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。」

 これは「御使いたちは神の独り子を拝むべきである」(ヘブル 1:6)といった聖句との整合性を巡る激しい論争を呼びましたが、彼らの「非三位一体論」的な精神は、現代のユニット・ユニット主義へと繋がっていくことになります。

ユニット・ユニット派とは何か

 「ユニット(Unit)」という言葉は「一単位」や「単一」を意味し、キリスト教神学においては「三位一体(トリニティ)」の対義語として用いられます。彼らは、神は父・子・聖霊という三つの位格から成るのではなく、ただ一人の人格(父なる神)のみが唯一の絶対的な神であると主張しました。このグループは、16世紀のトランシルヴァニア(現在のルーマニア・ハンガリー)において、フェレンツ・ダーヴィドの指導のもとに明確な教団として形成されました。

「神は一つ」の宣言

 フェレンツ・ダーヴィド(1510-1579)は、カトリック、ルター派、カルヴァン派を経て、最終的に「三位一体論は聖書に根拠がない」という結論に達しました。彼らが三位一体を否定し、神の唯一性を主張した主な理由は、聖書の徹底的な文献学的・理性的解釈にありました。彼の思想は、トランシルヴァニア公国の王ジョン・ジギスムントの支持を得たことで、歴史上稀に見る「国家的に認められた反三位一体派」となりました。

1568年:トルダの勅令

 ダーヴィドは1568年のトルダの勅令において、世界で初めて「信教の自由」を明文化させました。彼は「信仰は神の賜物であり、強制されるべきではない」と説き、各教区が自分たちの信じる教理を選ぶ権利を認めさせました。 「イスラエルよ、聞け。われらの神、主は唯一の主である」(マルコ 12:29)。ダーヴィドはこの聖句を、キリスト教が立ち戻るべき究極の原点と見なしました。

キリストの従属性と人間性

 イエス・キリストを「神そのもの」ではなく、神によって特別に選ばれ、力を授けられた「人間」あるいは「神の子」として理解しました。「永遠の生命とは、唯一の、まことの神でいらっしゃるあなたと、あなたがおつかわしになったイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ 17:3)。イエス自身が父を「唯一の、まことの神」と呼び、自分自身を「遣わされた者」として明確に区別している点を重視しました。

 「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(テモテ第一 2:5)。仲保者は神そのものではなく、あくまで「人」であるという聖書の記述を、文字通りに受け止めました。

聖霊の理解

 聖霊を独立した「神の第三の位格」とは見なしませんでした。聖霊は、神から発せられる「活動する力」や「影響力」であると定義しました。(ルカ 11:20)「しかし、わたし(イエス)が神の指によって悪霊を追い出しているのなら……」。彼らは、別の箇所で「神の霊(聖霊)」と呼ばれているものが、ここでは「神の指」と表現されていることに注目し、聖霊が神の一部としての「力」であることを論証しました。

「非礼拝主義(ノン・アドラント主義)」

 ダーヴィドの思想はさらに徹底され、「キリストは神ではないのだから、キリストに対して祈りを捧げたり礼拝したりすべきではない(礼拝の対象は父なる神のみである)」という「非礼拝主義」へと発展しました。

 これが、同じく反三位一体派であったファウスト・ソッツィーニらとの対立を生みました。ソッツィーニは「キリストは神ではないが、神から権威を与えられた存在として礼拝されるべきだ」と考えたからです。最終的に、政治的情勢の変化もあり、ダーヴィドは「革新主義者」として投獄され、1579年に獄中で没しました。彼の殉教は、ユニット・ユニット派の精神的な礎となりました。トランシルヴァニアで生まれたこの動きは、ポーランドのソッツィーニ派と合流し、その後イギリスやアメリカへと伝わりました。

  • イギリス: ジョン・ビドルやジョセフ・プリーストリーらが、この「唯一の神」の教義を継承しました。
  • アメリカ: 19世紀に入ると、ハーバード大学を中心にユニテリアン主義が知識層に広まり、超越主義文学(エマソンなど)や社会改革運動に大きな影響を与えました。

ファウスト・ソッツィーニ(1539-1604)

 ミシェル・セルヴェの火刑後、彼の「神の唯一性」を強調する思想は、比較的宗教的寛容が保たれていたポーランドやトランシルヴァニアに伝わりました。ここで、イタリア出身の二人の神学者、レリオ・ソッツィーニ(1525-1562)と、その甥ファウスト・ソッツィーニ(1539-1604)によって体系化され「ソッツィーニ派」と呼ばれました。

 彼らはポーランドにおいて「ポーランド同胞団(Minor Reformed Church of Poland)」を結成しました。彼らは、キリスト教の教義から非合理的な要素を排除し、聖書を理性的、かつ文脈に即して理解しようと試みました。

 ソッツィーニ派は、キリストの先存在(人間として生まれる前から神として存在していたこと)を否定しました。彼らによれば、イエスは「処女によって生まれた真の人間」であり、その従順さのゆえに復活後、神から権威を授けられた存在です。

 「永遠の生命とは、唯一の、まことの神でいらっしゃるあなたと、あなたがおつかわしになったイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ 17:3)。彼らは、イエス自身が父を「唯一の、まことの神」と呼び、自分をその「使わされた者」と区別していることを重視しました。

 「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(テモテ第一 2:5)。この聖句に基づき、仲介者は神そのものではなく、あくまで「人」でなければならないと主張しました。そのようなわけでカトリックとプロテスタントが信じている「三位一体」の教理を聖書に基づき否定しました。

 聖書の中では、大人だけがバプテスマを施されているので、幼児洗礼は非聖書的であること、また隣人を愛して戦争の武器を放棄する聖書の命令に従い、良心的兵役拒否の立場を貫きました。 

『ラコビア綱領』

 1605年に出版された『ラコビア綱領(Racovian Catechism)』(ラコヴィア教理問答)は、ソッツィーニ派の教義をまとめた著作です。1652年にジョン・ビドルにより英訳されました。本稿では、1605年ポーランド語版、1609年ラテン語版を基にした1818年トマス・リース(Thomas Rees)校訂の標準的な英訳版を参照しています。この綱領は、三位一体論を「聖書の記述に反し、理性を麻痺させるもの」として退けました。カトリックや主流派プロテスタント(ルター派・改革派)が保持した「三位一体」や「キリストの神性(先在性)」を、聖書的正統性から逸脱した人間的な付加物であると批判しました。

 ラコビア綱領は、神の固有のお名前がJEHOVAHであると説明し、三位一体論の根拠とされる聖句を徹底的に検証しました。例えば、マタイによる福音書28章19節の「父と子と聖霊の名によって」という洗礼の定型句についても、それが「三つの位格が同一の本質である」ことを証明するものではなく、単に神の救いの計画における役割を示しているに過ぎないと解釈しました。

 ラコビア綱領は、「問い」と「答え」の形式で、簡単明解にシンプルにまとめられています。第3セクション:神の知識について「第1章:神の本質(Nature)について」参照。

神の御名の定義と「エホバ」の固有性

【出典:Section III, Chapter I, p. 28】

問い: 神の名称(Names)にはどのようなものがありますか。

答え: 主なものは、JEHOVAH、ELOHIM、および ADONAI である。

問い: これらの名称について、何か説明すべきことがありますか。

答え: ある。特に JEHOVAH という名称についてである。これは神に最も固有な(appropriate)名称であり、それによって、神が自存する方(He who is of himself)であること、また、その本質において常に同一であり、その約束の成就において不変であることを意味している。


「エホバ」が単一の位格(父)のみを指すという論証

【出典:Section III, Chapter I, p. 34 (注釈および本文の文脈)】

「……この JEHOVAH という名称が、聖書においてただおひとり、至高の神に対してのみ常に適切に用いられ、しかもそれが唯一の位格(Single Person)にのみ帰せられているという事実は、神が複数の位格(三位)であるという主張を退ける強力な証拠となる。なぜなら、もし神が三つの位格であるならば、この固有の名もまた、三つの位格を包括して用いられなければならないからである。」


キリストが「エホバ」ではないことの明示的否定

【出典:Section IV, Chapter I, p. 164】

「……彼(イエス・キリスト)が、至高の神と全く同一の本質を有しているのではないことは、以下の点からも明らかである。すなわち、キリストは聖書において一度も JEHOVAH という名称で呼ばれたことがない、という点である。この名称(JEHOVAH)こそが、聖書が至高の神のみに固有のものとして厳格に留保している名前なのである。」


申命記 6:4(シェマ)の解釈における「エホバ」

【出典:Section III, Chapter I, p. 29 および p. 33の論議】

「『聞け、イスラエルよ。我らの神、JEHOVAH(主)は、唯一の JEHOVAH である』(申命記 6:4)。この宣言において、JEHOVAH という名称が繰り返されていることは、神の絶対的な唯一性と、その位格が単一であることを強調している。もし子や聖霊もまた JEHOVAH であるならば、この聖句が教える『唯一性』は破壊されてしまう。」

カトリック教会の反撃と抑圧

教会の権威と伝統の再定義

 プロテスタントが「聖書のみ」を主張したのに対し、カトリック教会は1545年から1563年にかけて開催されたトレント公会議において、教会の伝統(聖伝)は聖書と同等の権威を持つと宣言しました。カトリック教会は、聖書そのものが教会の権威によって編纂されたものであるとし、個人の勝手な解釈を禁じました。

 「あなたはペテロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう……わたしは、あなたに天国の鍵を授けよう」(マタイ 16:18-19)。この聖句に基づき、教皇こそがキリストの名代であり、正当な解釈権を持つと主張しました。 「兄弟たちよ。かたく立って、わたしたちから言葉で、あるいは手紙で伝えられた教え(伝統)を、しっかり守り続けなさい」(テサロニケ第二 2:15)。聖書に明記されていない教義(三位一体論など)も、使徒以来の口伝として正当化しました。

禁書目録と検閲

 グーテンベルクの印刷術による思想の拡散に対抗するため、カトリック教会は1559年に「禁書目録(Index Librorum Prohibitorum)」を制定しました。これにより、聖書翻訳は禁止され、ティンダルやルターによる各国語訳聖書は、「誤訳に満ちた毒」として没収・焼却の対象となりました。教会は、ラテン語のウルガタ訳のみを公認の聖書としました。

 ミシェル・セルヴェの著作やソッツィーニ派の『ラコビア綱領』は、目録の筆頭に挙げられ、所有するだけで異端審問の対象となりました。情報の流入を断つことで、民衆が「父なる唯一の神」という原始的教義に触れる機会を奪いました。

異端審問と物理的な弾圧

 カトリック教会は、異端審問所(インクイジション)を強化し、教義に異を唱える者を物理的に排除しました。ジョン・ウィクリフに対しては、死後30年以上経ってから遺体を掘り起こして焼却し、ヤン・フスに対しては、安全保障の約束を反故にして火刑に処しました。これは「教会への反抗は死を意味する」という強力な見せしめでした。

  ミシェル・セルヴェはプロテスタントのジュネーブで処刑されましたが、カトリックの異端審問所もまた、彼を捕らえて火刑にするための判決を既に下していました。三位一体論を否定する者は、カトリック・プロテスタント両陣営にとって「共通の敵」であったことがわかります。

イエズス会の創設と教育による対抗

 1534年にイグナチオ・デ・ロヨラによって創設されたイエズス会は、カトリック教会の「精鋭部隊」として機能しました。ロヨラと同じくバスク出身のフランシスコ・ザビエルは、後に日本にキリスト教を伝えるために派遣されました。(第4章「基督教と日本」参照)

 彼らは高い知性を武器に、プロテスタントや反三位一体論者の論理的弱点を突きました。イエズス会は、三位一体論のような難解な教義こそが「人間の理性を超えた神の神秘」であり、それを否定するソッツィーニ派の合理主義は「信仰の欠如」であると攻撃しました。例えば、 「神の深み、神の知恵と知識との豊かさは、ああ、知りがたいかな」(ローマ 11:33)を引用し、理解できないことをそのまま信じることこそが謙虚な信仰であると説きました。

三位一体論の教条的再確認

 カトリック教会は、ソッツィーニ派やニュートンのような文献学的批判に対し、ニカイア信条やアタナシウス信条を改めて絶対視しました。

 彼らは、アリアス派やその後の反三位一体論者たちが用いる「父は私より偉大である」(ヨハネ 14:28)という聖句に対し、それはキリストの「人性」について語っているのであり、「神性」においては父と等しい(同質)であるという二性一人格の論理を改めて強調し、反論を封じ込めようとしました。

原始キリスト教の精神の回復

ジェームズ1世(1566-1625)とジェームズ欽定訳(KJV)

 1611年、イギリス王ジェームズ1世の命により、当時の最高の学者たちが動員されて「欽定訳聖書(King James Version)」が完成しました。これはティンダル訳の多くを継承しつつ、英語圏における標準的な聖書となりました。

 この公式訳聖書では、ウィリアム・ティンダルのYHWHを「大文字で区別する」という手法が受け継がれました。基本的に「LORD(主)」という称号を用いましたが、4箇所(出エジプト 6:3, 詩篇 83:18, イザヤ 12:2, 26:4)で「JEHOVAH」という名を採用しました。これにより、英語圏の人々に「神には固有の名がある」という認識が定着しました。

  1. 出エジプト記 6章3節: 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神の名によって現れたが、わたしの名エホバによっては、彼らに知られなかった。」(And I appeared unto Abraham, unto Isaac, and unto Jacob, by the name of God Almighty, but by my name JEHOVAH was I not known to them.)
  2. 詩篇 83篇18節: 「それは、人々が、その名がただ一人エホバであるあなたのみが、全地を治める至高者であることを知るためである。」(That men may know that thou, whose name alone is JEHOVAH, art the most high over all the earth.)
  3. イザヤ書 12章2節: 「見よ、神はわたしの救である。……主エホバはわたしの力であり、わたしの歌であり……」(Behold, God is my salvation; … for the LORD JEHOVAH is my strength and my song…)
  4. イザヤ書 26章4節: 「あなたがたは、とこしえに主に信頼せよ、主エホバはとこしえの岩であるからだ。」(Trust ye in the LORD for ever: for in the LORD JEHOVAH is everlasting strength.)

 欽定訳の翻訳者たちは、その他の約6,000回以上のテトラグラマトンの箇所を大文字の「LORD」と表記することで、一般名詞の「Lord(主)」と区別しました。

 皮肉なことに、この公式な聖書の普及は、アイザック・ニュートンのような徹底的な探求者を生むことになります。ニュートンは、この欽定訳を精査することで、後世に挿入された「ヨハネのコンマ(ヨハネ第一 5:7)」などの三位一体を支持するための改竄を暴き出していくことになったのです。

ジョン・ミルトン(1608-1674)

 『失楽園』で知られるイギリスの詩人ジョン・ミルトン(1608-1674)は、文学者としてだけでなく、聖書原典を深く研究した神学者としても重要です。彼の神学は長らく隠されていましたが、1823年に発見された遺稿『キリスト教教理について(De Doctrina Christiana)』により、彼が徹底した反三位一体論者であり、神の名前「エホバ」を重視していたことが明らかになりました。

 ミルトンはその生涯において、カトリックやイングランド国教会の伝統的な教理に強い疑問を抱いていました。彼は死の直前まで神学論文を執筆していましたが、その内容は当時の社会では到底受け入れられない「異端」的なものであったため、死後150年近く秘匿されていました。1823年にロンドンの公文書館で発見されたこの手稿は、彼が三位一体論を聖書的根拠のない「捏造」と断じていたことを証明しました。

 ミルトンは、父なる神と子(イエス・キリスト)が同一の本質を持つという三位一体論の核心を明確に否定しました。彼は、神は「数的にも実体的にも唯一である」と主張しました。父なる神だけが自存し(始まりがなく)、子は神によって「ある特定の時」に生み出された存在です。したがって、子は父に従属し、父より劣る存在であると考えました。「わたしたちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものは神から出て……」(コリント第一 8:6)。ミルトンはこの聖句を引き、唯一の神とは「父」のみを指すのであって、そこに子や聖霊が含まれることはあり得ないと論じました。

 子は「すべての造られたものの中で最初に生まれた方」(コロサイ 1:15)であり、「神に造られたものの根源」(ヨハネの黙示録 3:14)であると述べ、子が父と共永遠ではないことを強調しました。彼は聖霊についても、独立した神としての位格ではなく、神から発せられる「力」や「影響力」、あるいは神の使者としての役割として捉えました。

 ミルトンは、神の唯一性を守るための最も強力な証拠として、ヘブライ語のテトラグラマトン(YHWH)に由来する固有の名「エホバ」を挙げました。ミルトンの論理において、名前は存在を識別する最も重要な要素でした。彼は聖書を精査し、「エホバ」という名が適用されているのは至高の父なる神だけであり、この名は他の誰にも(キリストにさえも)分け与えられることはないと主張しました。

 「その名はエホバという、唯一、全地を治める至高者であることを、彼らに知らせてください」(詩篇 83:18)。ミルトンはこの聖句を、父なる神が他のすべての存在から絶対的に区別される根拠としました。彼は、キリストが「主」と呼ばれることがあっても、それは父から与えられた代理権による称号であり、自存する存在としての「エホバ」とは本質的に異なると説きました。「主(エホバ)はひとり、その名もただ一つとなる」(ゼカリヤ 14:9)という預言は、将来、混迷した三位一体論が消え去り、エホバという唯一の名だけが崇められることを指していると考えました。

 ミルトンは、ニカイア公会議(325年)以降の教会会議が、聖書に「実体」や「位格」といった哲学的な用語を持ち込んだことで、キリスト教が腐敗したと批判しました。聖書が「父はわたしよりも偉大な方である」(ヨハネ 14:28)と述べているなら、それを伝統や信条のためにねじ曲げて解釈することは不誠実な行為でした。

アイザック・ニュートン(1642-1727)

 ソッツィーニ派の思想は17世紀後半のイギリスに伝わり、ジョン・ビドルなどの活動を通じて、知識層に大きな影響を与えました。近代科学の巨人アイザック・ニュートン(1642-1727)もまた、その影響を強く受け、密かに三位一体論を否定する膨大な神学研究を残していました。

 ニュートンは、神学に関する膨大な手稿の中で、神を「パントクラトール(全能の統治者)」と呼び、その固有の名前としてのテトラグラマトンの意味を深く考察しました。彼は、三位一体論がこの唯一の神の名の重みを覆い隠してしまったと批判しました。ニュートンにとって、神は物理法則を定めた「エホバ」という一個格の存在であり、キリストは神から権威を与えられたその代理者でした。

 ニュートンは、現行の聖書には後世の改竄が含まれていると考え、古代の写本を精査しました。彼は、三位一体論が4世紀のアタナシウスらによって、教会政治の道具として「捏造」されたものであると結論づけました。

ニュートンが指摘した「聖書の改竄」

 ニュートンは論文『二つの顕著な聖句の改竄の歴史的記述』(「アイザック・ニュートン卿の見解」参照)において、三位一体を支持するために挿入された疑いのある聖句を鋭く批判しました。

  • ヨハネ第一の手紙 5章7節: 「天で証しをするものは三つあり、父と御言葉と聖霊である。そしてこれら三つは一つである」という記述(通称:ヨハネのコンマ)について、ニュートンはこれが初期のギリシャ語写本には存在せず、後世にラテン語訳聖書に挿入されたものであると論証しました。
  • テモテ第一の手紙 3章16節: 「神は肉において現れ(God was manifest in the flesh)」という記述についても、古い写本では「神(Theos)」ではなく「彼(Hos、すなわちキリスト)」と記されていたことを指摘し、イエスを神と同一視するための意図的な書き換えであると主張しました。

 ニュートンにとって、神は絶対的な「唯一の統治者(Pantokrator)」であり、イエスは神に従属する「御子」でした。彼は「父は子よりも偉大である」(ヨハネ 14:28)というイエスの言葉を、文字通り真実として受け止めていました。

ボルテール(1694-1778)

 フランスの啓蒙思想家ボルテールは、カトリック教会の独断と不寛容を激しく批判しました。著書『哲学書簡』の中で、ニュートンの反三位一体論的な考えを紹介し、三位一体のような理不尽な教義を強いる教会制度を「破廉恥なものを打ち砕け」と弾劾しました。彼は、原始キリスト教の単純な教えが、後世の教会によって複雑怪奇なものに変えられたと主張しました。(マタイ 15:9)「人間の規定を教義として教え、むなしくわたしを拝んでいる。」

ジョセフ・プリーストリー(1733-1804)

 18世紀から19世紀にかけて、ソッツィーニ派の合理主義的な聖書解釈は、イギリスやアメリカにおいて「ユニテリアン主義」として花開きました。この時期の重要な人物の一人が、酸素の発見者として知られる化学者であり神学者のジョゼフ・プリーストリー(1733-1804)です。

 プリーストリーはニュートンの流れを汲み、『キリスト教の腐敗の歴史』を著しました。彼は、三位一体論やキリストの神格化を、キリスト教がギリシャ哲学や異教の概念と混ざり合った結果として生じた「キリスト教に混入した最大の腐敗」であると断じました。彼は、使徒たちがイエスを「神そのもの」として礼拝していた形跡が新約聖書にないことを指摘しました。彼は、神をアブラハム、イサク、ヤコブの神「エホバ」として再定義し、キリストの神格化を否定しました。

 彼は科学的な合理性を持って聖書を読み直し、イエスを完全な人間として捉える原始キリスト教の姿を復興させようとしました。「ナザレのイエスこそ、神が……あなたがたに示された人(アネール)である」(使徒行伝 2:22)。プリーストリーはこの聖句を引き、ペテロが最初期の説教においてイエスを明確に「人」と呼んでいる事実に注目しました。

アメリカにおける原始キリスト教復興運動(レストレーション・ムーブメント)

 19世紀初頭のアメリカでは、多くの教派がそれぞれの信条(クリード)を掲げ、互いに反目していました。これに対し、バートン・ストーン(1772-1844)やアレクサンダー・キャンベル(1788-1866)といった指導者たちは、「聖書のみ」を唯一の指針とし、初代教会の単純な信仰に戻ることを提唱しました。

 原始キリスト教の復興運動は、いくつかのグループに分かれていましたが、イエスがキリスト、神の子であるという信念で団結したり、分裂したりを繰り返していきました。

「聖書が語るところで語り、聖書が沈黙するところで沈黙する」

彼らのスローガンは「聖書が語るところで語り、聖書が沈黙するところで沈黙する」というものでした。この原則は、聖書に記述のない用語や概念、特に「三位一体」という教理を再検討させる強力な動機となりました。レストレーション・ムーブメントの指導者、特にバートン・ストーンは、三位一体論を「非聖書的であり、キリスト教徒を分断させる人間中心の教理」として激しく批判しました。

 ストーンは、当時の正統派教理が用いていた「位格(Persona)」や「実体(Substantia)」といった用語は、聖書のどこにも見当たらない哲学的な造語であると指摘しました。「わたしたちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものは神から出て……」(コリント第一 8:6)。彼はこの聖句に基づき、唯一の神とは「父」のみを指すと主張しました。

 彼は、イエスが父と「同等」であるという主張に対し、イエス自身の言葉「父はわたしよりも偉大な方である」(ヨハネ 14:28)を引用し、キリストは神に従属する「神の御子」であると説きました。

 彼らにとって、三位一体論を信じるか否かを「クリスチャンであるかどうかの踏み絵」にすることは、聖書の権威を冒涜する行為に等しかったのです。「しかし、万物が子に従うとき、子自身もまた、万物を自分に従わせられたかた(父なる神)に従うであろう。それは、神が万物において、すべてとなられるためである」(コリント第一 15:28)。この聖句は、キリストが永遠に神と対等なのではなく、最終的には父に従属することを示す有力な根拠とされました。

 レストレーション・ムーブメントの「原始の姿を取り戻す」という情熱は、神の称号(主、神)だけでなく、聖書本来の「固有の名前」の再発見へと繋がっていきました。運動の参加者たちは、旧約聖書のヘブライ語原典において、神がご自身の名を「エホバ(Jehovah / YHWH)」として啓示していることに改めて注目しました。

  • 「これは永遠にわたしの名、これは世々にわたしの呼び名である」(出エジプト記 3:15)。
  • 「主(エホバ)の名を呼ぶ者は、みな救われる」(ヨエル 2:32 / ローマ 10:13)。
  • 「主(エホバ)は、全地の上に王となられる。その日には、主はひとり、その名もただ一つとなる」(ゼカリヤ 14:9)。

 彼らは、カトリックや主流派プロテスタントが「主(Lord)」という抽象的な称号に置き換えてしまったことで、神の個性が失われたと考えました。特に、三位一体論において「父」と「子」が混同される原因の一つが、この「名前の隠蔽」にあると見抜いていました。父の名が「エホバ」であり、子の名が「イエス」であることを明確に区別することは、神の唯一性を守るために重要であると考えました。

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