「十字架」の翻訳について

原語に忠実な翻訳

原文のギリシャ語 “stauros”(スタウロス)が「木の杭・柱」を意味することから、文字通りに「十字架」ではなく「杭」と訳している聖書があります。「新世界訳聖書」のマタイ27:38-40節では、「この時,2人の強盗がイエスの左右に1人ずつ,杭に掛けられた。 そばを通る人たちはイエスについて暴言を吐き,頭を振ってこう言った。『神殿を壊して3日で建てる者よ,自分を救ってみろ! 神の子なら,苦しみの杭から下りてこい!』」となっています。

この翻訳の仕方が問題視・異端視されることがあるようですが、原文に忠実に翻訳している聖書の一つだと言えます。聖書翻訳において原語が、どのようなものであったか分からない場合に、翻訳は「語義の再構成(semantic reconstruction)」の作業となります。大別すると以下の方法が取られるようです。① 音写型(不明ため原語そのまま維持する)② 意訳型(神学・文脈に基づき再概念化)③ 推定訳型(考古・言語学に基づく再同定)。

マタイ27:40(κατάβηθι ἀπὸ τοῦ σταυροῦ)

表現
口語訳十字架から降りてみよ
新改訳十字架から降りて来い
新共同訳十字架から降りてみろ
新世界訳苦しみの杭から降りて来い
岩波聖書(2004年版)十字架から降りてみよ
岩波聖書(2022年版)杭殺柱から降りよ

岩波聖書(2022年版)の聖書翻訳者佐藤 研さんの意見に注目しましょう。

佐藤 研:なぜ十字架ではなく「杭殺柱」か

「なぜ十字架ではなく『杭殺柱』か」より引用

 …そもそも聖書の翻訳では、すでにキリスト教内部で伝統的とされている訳語はすべからくそのまま踏襲されることが常識となっている。私は、今回の共観福音書の改訂に際して、初版の時にも増して、この原則を疑ってかかった。つまり、キリスト教訳語の伝統に縛られず、元来のギリシャ語の意味を生かすような訳語を選択しようと努めた。今、その内の一例をご紹介しよう。

 「十字架」──誰もが知る、キリスト教の象徴である。ギリシャ語の原語は「スタウロス」(stauros)、その原意は「杭くい」である。元来はおそらくペルシャからローマ帝国に入ってきた処刑法と言われる。ラテン語ではこれに「クルクス」(crux)という語を当てた。一定の高さのある「杭」を一本地面に立てて(crux simplex)、そこに罪人を、手を上にし、足が地に着くか着かない形でくくり付けるか、釘付けにしておくと、体力が消耗して体が垂れ下がり、やがて呼吸困難に陥り、一時間もせずして苦悶の中に窒息死(asphyxia)ないしはショック死するという(したがって同刑は、高架に縛り付けて槍で刺す「磔はりつけ」とは異なる)。そのように早く死なせてならぬというので、やがて縦木である杭の頂に横木を渡して固定し、その横木に罪人の手首を縛り付けるか、手首を釘付けにするという変形が編み出された(crux commissa, 全体はT字形)。

 もう一つの形は、横木を縦木の中に通す形(crux immissa)、これが普通に私たちが目にするものである。ただし、最も多かったのはT字形であったといわれている。その際、加えて縦の杭のちょうど股に当たる部分に突起物を設え、それに罪人が跨がるようにすると、衰弱した罪人が体重で一気に垂れ下がり死に至るのを防ぐことができる。つまり、罪人が苦しんで生存する時間を長める策であり、息絶えるまで普通は二、三日を要した、と言われている。これによってこの処刑法のおぞましい見せしめ効果は一層強化された。そのために、この処刑場は、普通は町の城壁外に設けられた。そうすれば、夜やってくる野禽たちに半死半生の罪人の肉を漁らせることにもなった。ぼろぼろになった罪人の死体は多くが正式に埋葬はされず、死体処理場の穴に放り込まれるのが通例であった。

 この処刑法は、ローマ人にも醜悪に映ったらしく、したがってそれが妥当したのは、普通は属州の(つまり非ローマ市民の)反逆者などの重罪者か、奴隷で極悪罪を犯した者に限られていた。ローマ人の中でも、この処刑法を忌み嫌った者は多く、キケロがcruxという言葉すら、「ローマ市民の身体のみならず、ローマ市民の考えからも目からも耳からも消え去るべきだ」と訴えたのは有名な話である。

 ここで大事なことは、上記の説明からすると「スタウロス」は、いわゆる「十字架」という語から想像される「十文字」の形を必ずしもしていなかったこと、多くがⅠの字やT字の形であったらしいことである。ということは、この処刑法を一律に「十字架刑」と呼び、その刑具を「十字架」と呼ぶのは、形態の名称としては必ずしも正しくないことになる。前述のように、ローマ人はこの処刑法を「クルクス」というラテン語でも呼んだが、その語源は実は未だに不明である。少なくとも「十文字」の意味ではなかった。

いつから「スタウロス」/「クルクス」は「十字架」になったのか

 …この「十字架」という日本語そのものは漢訳聖書に由来する。事実、現存する最古の漢訳であるJ・バセ訳の『四史攸編』(一七三七年、原本はウルガータ)がすでに「十字架」と記している。それ以降の全ての訳も同様である。これは既に、ウルガータのcruxが、漢訳される頃には「十文字」の形をした刑具であると理解されていたことを示す。…そもそも「十文字」の意匠自体は極めて古く、いわば人類集合的な分布を示す。総じて天の「四方」を示唆し、四元素(火、風、水、土)を暗示し、全体性を示唆すると同時に完全性をも内包するシンボルである(仏教における卍印も「十文字」の変容形である)。

 古代イスラエルおよびユダヤ教では、ヘブライ語アルファベットの最後の文字「タウ」(Tau, Taw)がX(回転させれば十文字に等しい)と表記され得、額ひたいなどに付けられる帰属および保護の徴として理解された(エゼキエル九4―6)。これに基づき、新生キリスト教のヨハネ黙示録(七2以下、九4)にも同様の「額の徴」が現れる。ギリシャ語の「キリスト」(Christos)の最初の文字がX(キー)であり、ちょうど上記の「タウ」表記と符合する事実も幸運な偶然であったろう。そして紀元二世紀中頃になると、例えばユスティノスは、十文字形を万物の中に読み取り、それを十文字形の「スタウロス」と重ね合わせて理解していく。ここでは、十文字およびその形と理解された「スタウロス」は、明らかに一切を統べる力の象徴となっている。

 他方、ローマ軍は(ギリシャに倣って)戦勝の度に、敵の武器や武具などを掛けてトロパイオン(戦勝標)を作ったが、これは多くが十文字形であった。興味深いのは、あのコンスタンティヌス大帝(在位三〇六―三三七年)が三一二年に、ミルウィウス橋の戦いの直前に天空に見た徴は、「スタウロスのトロパイオン」の形であったという。ここでは、「スタウロス」はおそらく十文字の意味に使われている。それが後に、彼によって定型化された「ラバルム」(Labarum)、すなわち「キリスト」の最初のギリシャ語二文字(ⅩとP [ギリシャ語の「ロー」])を組み合わせた「クリストグラム」の軍旗意匠となる。こうして十文字形は、死を乗り越え罪に打ち勝った勝利者イエスの像に見事に適合することになり、イエスの処刑具=勝利の形として理解されていく。

 これと並んで、「スタウロス」/「クルクス」による処刑が二世紀ごろから四世紀までの間に徐々に減少していった過程が想定できる。その帰結が、コンスタンティヌス大帝下で実施されたといわれる同処刑法の廃止である。こうして、この処刑法がどのように残酷な形態だったか、ローマ人の記憶からも徐々に消えていくのである。

 したがって、元来「Ⅰ字架」か「T字架」が大多数であった「スタウロス」/「クルクス」というおぞましい処刑具の形が、中世が始まるまでには総じて勝利の「十文字」架=「十字架」の姿を取るようになったと想定される。大英博物館が所蔵する、紀元四二〇―四三〇年に(ローマにて?)製作された象牙レリーフのイエス処刑場面──同場面の現存最古の造形物──では、「スタウロス」/「クルクス」は間違いなく十文字をしていると思われ、そこで両手を広げたイエスは死んでいるどころか、圧倒的な生命力で万物万民を見据えている絶対勝利者である。この輝かしい「十字架」意匠の延長に、「十字架」が美しいペンダントにもなるという現象が出てくる。日本語でも、「白亜の十字架」などと聞くと、どこか崇高な美しさを思わない人はいないであろう。「十字架を負う」という表現は美談を示唆する。そこでは、「十字架」が元来ギロチン以上に醜悪な刑具であった事実はもはや見えてこない。

 そうであればなおさら、紀元一世紀の福音書に現れる「スタウロス」を、伝統的な「十字架」という言葉で訳出してよいか、考え直さねばならないと思う。福音書に出てくる「スタウロス」は、美しい代物では絶対にない。そこで今回の改訂新版の共観福音書の部分では、「十字架」という伝統的訳語を放棄し、「杭殺刑こうさつけい」「杭殺柱こうさつちゅう」という語を新たに作って訳出した。「スタウロス」の原意が「杭くい」であり、その「杭」で「殺す」刑具であることを直接示したつもりである。未だ「十文字・架」が「キリスト教」の象徴として登場していない紀元一世紀において、この処刑法の持っていたおぞましくも呪わしい姿を伝えたかったのである。


補足情報

5ハ 「苦しみの杭」ギ語, σταυρός(スタウロス); ラ語,crux(クルクス)

The Kingdom Interlinear Translation Of The Greek Scriptures (1985)より引用

福音書翻訳のむずかしさ

d「杭殺柱」

「日本における聖書翻訳の歩み」上智大学キリスト教文化研究所編より引用

もう一つ厄介なものがstaurosという言葉である。これは多少長めの説明が要る。この単語は、一般に「十字架」と訳される。イエスが殺された処刑法である。しかし、原語は「杭」という意味であって、「十字」という意味はない。また、この処刑法をラテン語にするとcruxといい、そこから英語のcrossも出てくるのだが、cruxに元来「十字」の意味があるわけではない。そもそもcruxの語源は不明と言われている。元来単に一本の杭の上部に罪人の手をくくりつけるか、釘で打ち付けるもので、そのようにしてその杭に全身を垂らさせて衰弱させ、果ては呼吸困難で窒息死かショック死に至らしめるものであったと思われる。…(中略)

その美的安定性と共に天の四方を表す象徴力の故に――staurosとは全く無関係に――世界中のどこでも珍重された意匠であるが、それがこの時期以降、staurosの標準形として伝播していくのである。その変容プロセスはまだ完全に解明されているわけではないが、おそらくローマ軍兵士たちの間での表象変異が出所と見られる(保坂高殿「古代キリスト教における十字架磔刑図像の成立」、日本昭男・佐藤研(編)『経験としての聖書』〔聖書学論集四〇・大貫隆教授献呈論文集〕、リトン、〇〇九年、五五一―五五六頁参照)。何はともあれ、これ以降、staurosはその無惨な恥辱的敗北のニュアンスをそぎ落とし、美しい勝利の「十字架」として教会の屋根を飾り、また高貴なペンダントにもなって、信者や修道女らに愛される意匠となるのである。つまり、「十字架」が美しく、「かっこよく」なったのである。人は「十字架を担う」と言い、そこになにがしかの積極的な意味を込めるが、まさか「処刑台の柱を担う」とか「ギロチン台を背負う」とは言わないであろう。それは言語的に悪趣味で、いつもの「美」がないからである。つまり、現行の日本語「十字架」は、形態的に正しくないだけではなく、staurosが元来持っていた、目も当てられない凄惨さが表現されない審美的象徴語にまでなってしまっているのである。

 そこで私は、岩波版の共観福音書の改訂版には、「十字架」ではなく、「杭殺柱」という創作語を導入しようと思っている。「杭」で殺すための用具だからである。また、これによる刑は「杭殺刑」と名付けたい。これによって、この処刑法の持つ元来のおぞましさが少しでも示唆されるのであれば、それだけでも益があると思うからである。

補足情報

佐藤 研(さとう みがく)
1948年生.東京大学大学院人文科学研究科西洋古典学専攻博士課程修了.ベルン大学で神学博士号取得.立教大学名誉教授.新約聖書 改訂新版 新約聖書翻訳委員会 訳(岩波書店) 共観福音書(マルコ・マタイ・ルカ)担当

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